アカボウクジラは体長5〜7m・体重2〜3トンほどの中型ハクジラで、アカボウクジラ科Ziphius属で唯一の種です。北極海と沿岸浅海を除く世界中の外洋に分布しており、水深1,000m以下の深海に潜って主にイカを食べます。潜水能力は哺乳類の頂点にあり、2014年に水深2,992m、2020年には3時間42分の潜水が計測されました。いずれも哺乳類として世界最深・最長の記録です。人前に出ることが少なく、生態のかなりの部分は今も未解明のままです。近年は海軍ソナーへの感受性が高いことが分かり、集団死との関係が調査対象になっています。
分類と学名
分類階層
- 界:動物界 Animalia
- 門:脊索動物門 Chordata
- 綱:哺乳綱 Mammalia
- 目:鯨偶蹄目 Cetartiodactyla
- 下目:ハクジラ下目 Odontoceti
- 科:アカボウクジラ科 Ziphiidae
- 属:アカボウクジラ属 Ziphius(1属1種)
- 種:アカボウクジラ Ziphius cavirostris
和名・英名
- 和名:アカボウクジラ/赤坊鯨
- 英名:Cuvier’s beaked whale(キュビエのくちばしクジラ)/別名 Goose-beaked whale(ガンのくちばしクジラ)
別名と名前の由来
和名の「アカボウ」は、成熟した雄の頭部から背中にかけて色が薄くなり、赤褐色〜白っぽく見える個体が多いことに由来します。学名の Ziphius cavirostris はラテン語で「くぼんだ吻を持つ剣魚」の意で、頭骨のくぼみと短いくちばしからついた名前です。19世紀の分類学者ジョルジュ・キュビエが化石頭骨をもとに1823年に記載したことから、英名 Cuvier’s beaked whale と呼ばれています。アカボウクジラ属は1属1種で、アカボウクジラ科の中で独立した属に置かれています。
大きさ・生息などの基本データ
| 大きさ | 体長 5〜7m(最大約7.5m)/体重 2〜3トン |
|---|---|
| 性的二型 | 雄はやや小さいが、頭・背が白っぽく見え、下顎に1対の牙状の歯を持つ |
| 体色 | 基本は暗い灰色〜褐色/雄は加齢とともに頭・背が白化/全身に線状の傷跡が多い |
| 頭部 | 吻はガンのくちばし状に短く、額のメロン器官が丸くふくらむ |
| 歯 | 雌はほとんど歯を持たない/雄は下顎先端に1対だけ牙状の歯 |
| 分布 | 北極海と沿岸浅海を除く世界中の外洋(熱帯〜寒帯・両半球) |
| 食性 | 深海性のイカ類が中心。深海魚・甲殻類も少量。吸引採餌 |
| 潜水 | 通常1,000〜2,000m前後・60分前後/記録は2,992m・3時間42分 |
| 保全状況 | IUCN: LC(軽度懸念)/ただし海軍ソナー暴露での集団座礁が問題視される |

世界最深2,992m、3時間42分の潜水記録
2014年の深度記録と2020年の時間記録
アカボウクジラの潜水能力は、哺乳類のなかで頂点に立ちます。カリフォルニア南部沖でおこなわれた衛星タグの調査では、2014年に水深2,992mまで達した記録が報告されました。哺乳類の潜水として計測史上最深です。
時間の記録もこの種のものです。2020年、ノースカロライナ沖の調査個体が3時間42分(222分)連続で潜水したと発表されました。それまでの推定を大きく上回る値で、この個体は繰り返しこの長さの潜水を続けていたと報告されています。
深海に耐える体の仕組み
肺をつぶし、酸素を筋肉と血液に貯める
数千mの水圧のなかで生きて戻ってくるためには、体そのものを深海仕様に切り替える必要があります。アカボウクジラは潜水前に息を吐き、深く潜るあいだに肺を意図的につぶしていきます。空気を残さないことで、窒素が血液に溶けて減圧症を起こすリスクを下げる仕組みだと考えられています。
ミオグロビンで筋肉に酸素を蓄える
酸素は肺ではなく、血液のヘモグロビンと筋肉のミオグロビンに蓄えて使います。深海性の海獣は例外なくミオグロビン濃度が高いのですが、アカボウクジラを含むアカボウクジラ科は陸生哺乳類の10倍近い濃度を持つとされ、これが長時間の無呼吸潜水を可能にしています。潜水中は心拍数も1分間に数回程度まで落として、酸素消費を極端に抑えます。

牙はほぼ使わず、口で吸い込むイカ食
雄だけが持つ2本の牙
アカボウクジラの歯は、独特の使われ方をします。雌にはほとんど歯がなく、雄も下顎の先端に1対(2本)の牙状の歯を持つだけ。この2本の牙は口を閉じても外に飛び出したままで、獲物を捕るためではなく、雄同士の闘争や個体識別に使われると考えられています。全身に走る白い線状の傷跡の多くは、この牙による同種のオス同士の争いの痕とされます。
吸引採餌で深海のイカを丸のみ
口の中を陰圧にして獲物を吸い込む
食性の中心は深海性のイカ類で、獲物は口の中を陰圧にして丸ごと吸い込む「吸引採餌」で捕らえます。舌を後ろに引きながら喉を広げると、口の中の圧力が急に下がり、周りの海水と獲物ごと一気に流れ込んでくる仕組みです。噛む必要がないため、雌に歯がほとんど無いこととも矛盾しません。
胃から出てくるイカのくちばし
座礁個体の胃内容の分析からは、深海性の中〜大型のイカが主食であることが分かっています。イカの体は消化されて残らない一方、硬いキチン質の「くちばし(顎板)」だけが胃に大量にたまるため、食べたイカの種類と大きさをおおよそ再現できるという特徴があります。ダイオウホウズキイカ類のくちばしが見つかった報告もあり、水深1,000m級の外洋イカを日常的に狩っていることを示しています。

単独〜数頭の小群で、静かに暮らす
2〜7頭が基本の群れ
アカボウクジラは、大群で目立つ行動をしないクジラです。目撃されるのは単独か、2〜7頭ほどの小群がほとんど。マッコウクジラのように数十頭の社会集団はつくらず、雄と雌雑仔の小さなグループがゆるく一緒にいる程度と見られています。船から目視できるのは息継ぎのわずかな時間だけで、多くは水面下の見えないところで暮らしています。
寿命は約60年前後
寿命は、歯の年輪などから60年前後と推定されています。妊娠期間は約12ヶ月、出産の間隔は2〜3年に1度ほどとされ、多くのクジラと同じくゆっくり育つ繁殖リズムを持ちます。生涯にわたって深海採餌に依存するため、他の海獣にくらべて「一生の食事の場」が特殊な環境に限定されている種になります。

エコロケーションと、頭部のメロン器官
額のメロン器官から出す高周波音
音を出して反響で獲物を探る
光の届かない深海で獲物を見つけるため、アカボウクジラはハクジラ全体と同じく音波(エコロケーション)を使います。額のふくらんだ「メロン器官」から発した高周波の音が海中を進み、獲物や地形に当たって返ってくる反響を下顎で受け取り、脳で位置と距離を組み立てる仕組みです。
種の同定に使える40kHzのクリック音
アカボウクジラの発する音は40kHz前後を中心にした鋭いクリック音で、種によって周波数パターンが異なるため、水中マイクの記録から種の同定にも使えます。ソナー研究や海洋音響研究でこの種のクリック音が数多く記録されており、姿を見なくても「その海に生息していること」だけは音で分かる状況になっています。

海軍ソナーとの関係、そして保全
2000年バハマの集団座礁が発端
アカボウクジラは、20世紀後半までは商業捕鯨の主対象になったことがほとんどなく、保全状況もIUCNのLC(軽度懸念)とされています。しかし2000年3月、バハマ諸島で海軍艦艇のソナー演習と同時にアカボウクジラを含むハクジラ類の集団座礁が起きたことをきっかけに、この種と中低周波の軍用ソナーとの関係が世界的な問題として認識されました。
ソナー音でパニック上昇が起きるという仮説
その後の解剖では、座礁個体の血管や臓器に減圧症様のガス塞栓が見つかりました。深海に長時間潜っている個体が突然大音量のソナー音にさらされて驚き、通常より早い速度で浮上したために体内の窒素が気泡化した、という仮説が有力視されています。地中海・カリブ海・カナリア諸島など、演習海域と重なる場所で同種の集団座礁が繰り返し観察されており、現在はNATO・アメリカ海軍がアカボウクジラの生息海域でソナー使用を制限する運用ルールを取り入れています。
近縁のクジラたち
アカボウクジラ科(Ziphiidae)は現在約23種が知られる、ハクジラの中でもとくに姿を見せないグループです。トックリクジラ属(Hyperoodon)やオウギハクジラ属(Mesoplodon)などが含まれ、多くの種は座礁個体からしか記載されていません。日本近海でも複数種が漂着記録として知られています。
関連



