ネズミイルカは、北半球の温帯〜亜寒帯の沿岸に広く分布する小型の鯨類です。分類上は「イルカ」ではなく「ネズミイルカ科(Phocoenidae)」に属します。マイルカ科のイルカとは別系統の仲間です。体長1.4〜1.9mと鯨類のなかでも最小級の部類で、丸くずんぐりとした体・小さな三角形の背びれ・短い吻が特徴です。北大西洋・北太平洋・黒海の3つの海域に3亜種+未命名の1個体群が分布し、日本近海の北海道・東北沿岸にも回遊してきます。世界の総個体数は70万頭以上と推定される、身近な鯨類のひとつです。
分類と学名
分類階層
- 界:動物界 Animalia
- 門:脊索動物門 Chordata
- 綱:哺乳綱 Mammalia
- 目:鯨偶蹄目 Cetartiodactyla
- 下目:ハクジラ下目 Odontoceti
- 科:ネズミイルカ科 Phocoenidae
- 属:ネズミイルカ属 Phocoena
- 種:ネズミイルカ Phocoena phocoena
和名・英名
- 和名:ネズミイルカ/鼠海豚
- 英名:Harbour porpoise / Common porpoise / Puffing pig(大西洋カナダ)
別名・学名の由来
属名 Phocoena はギリシャ語で「大きなアザラシ」を意味する語 phōkaina のラテン語形で、古代ギリシャの哲学者アリストテレスがこの動物を指して用いた呼び名にさかのぼります。種小名 phocoena も同じ語源で、属名と同じ形が繰り返される「トートニム」と呼ばれる命名です。1758年にリンネが原記載しました。英名の「porpoise(ポーポイス)」は、ラテン語の「豚魚(porcus + piscus)」に由来し、丸い体型が豚を思わせることに由来します。日本語の「ネズミイルカ」も、小さな体と灰色の体色が鼠を思わせる姿から名付けられた和名です。大西洋カナダの俗称「Puffing pig(プッフィング・ピッグ=ふうふう鳴く豚)」は、水面で呼吸するときの短い噴気音に由来します。
大きさ・生息などの基本データ
| 大きさ | 体長 1.4〜1.9m/体重 雄最大61kg・雌最大76kg(雌の方が大型) |
|---|---|
| 体色 | 背:暗灰/体側:淡灰/腹:白/全体にずんぐりした体型 |
| 頭部 | 丸く小さい/吻は短くほとんど段差なし |
| 背びれ | 小さく低い三角形(マイルカ科の鎌型と対照的) |
| 歯数 | 各半顎21〜25本/小さなヘラ状(マイルカ科の円錐歯と異なる) |
| 分布 | 北大西洋・北太平洋・黒海(4個体群)/日本近海は北海道・東北沿岸 |
| 生息環境 | 沿岸浅海・湾内・河口・フィヨルド/時に河川内へ進入 |
| 群れの大きさ | 単独〜5頭ほどの小群が基本/時に大群化 |
| 食性 | 小型群れ魚(ニシン・タラ・イワシ・スプラット)/時にイカ・エビ/1日体重の7〜8% |
| 繁殖 | 雌3〜4歳で性成熟/妊娠期間10〜11ヶ月/授乳8〜12ヶ月 |
| 寿命 | 野生でおよそ8〜13年(最長20年/飼育下31年) |
| 保全状況 | IUCN:軽度懸念(LC・2023評価)/バルト海・西アフリカ個体群はCR |
「イルカ」と「ネズミイルカ」の違い
科・体型・歯・行動の違い
マイルカ科とネズミイルカ科の分岐
「イルカ(dolphin)」と「ネズミイルカ(porpoise)」は英語では別の言葉ですが、日本語ではどちらも「イルカ」と呼ばれる混同されやすい仲間です。分類上は明確に異なる2つの科に分かれます。マイルカ科(Delphinidae)にはハンドウイルカ・シャチ・カマイルカなど約40種が属します。一方、ネズミイルカ科(Phocoenidae)にはネズミイルカ・スナメリ・イシイルカなど8種のみが属します。両科は約1500万年前のミオセン中期に共通祖先から分岐したと推定されています。
見た目と行動の違い

ネズミイルカ科の見た目の特徴は3つあります。ひとつめは短い吻(マイルカ科は長く突き出た吻)、ふたつめは三角形の小さな背びれ(マイルカ科は大きな鎌型)、みっつめはヘラ状の歯(マイルカ科は円錐形)です。行動面でもマイルカ科のような派手なジャンプやアクロバティックな群れ行動をあまり見せず、単独や少数で静かに水面近くを泳ぐ地味な種が多いのがネズミイルカ科の特徴です。ネズミイルカ自身もこの傾向が顕著で、水面から背びれだけを短く出して呼吸し、すぐに潜る控えめな行動をとります。
沿岸の隠れた狩人
1日に体重の7〜8%を食べる小型狩人

沿岸浅海と河口を好む暮らし
ネズミイルカは沿岸の湾・河口・フィヨルドといった浅海を好み、時には河川本流を数百km遡ることもあります。名前の英名「Harbour(港)」もこの沿岸志向に由来する呼び名です。基本的には単独か2〜5頭の小群で行動し、大群化することはあまりありません。主な餌はニシン・タラ・イワシ・スプラットなど3〜10cmの小さな群れ魚で、1日に体重の7〜8%(成体で約7kg)に相当する量を食べる必要があります。
1時間で数百匹を追う集中狩り
デンマーク沖の詳細な研究では、日中は1時間200匹もの魚を追いかけると報告されました。夜間は1時間550匹まで増え、そのうち90%を捕食に成功していると分かっています。エコロケーション(反響定位)で獲物を捕らえる、小型で貪欲な狩人といえます。エコロケーションのクリック音は非常に短く0.5〜5ミリ秒で、1〜2.2kHzの周波数で発せられます。この短いクリックをコミュニケーションと狩りの両方に使い分ける独特の音響戦略を持っています。
3亜種+αの地域個体群
北大西洋・北太平洋・黒海の4集団

北大西洋亜種と黒海亜種
ネズミイルカには3つの亜種と、まだ命名されていない北西太平洋の個体群が知られています。北大西洋亜種(P. p. phocoena)は西アフリカ沿岸〜イベリア半島〜北欧〜アイスランド〜北米東岸に広く分布します。黒海亜種(P. p. relicta)は黒海とアゾフ海に隔離された小規模な個体群です。地中海と黒海をつなぐボスポラス海峡は狭く、黒海亜種は他の海域と交流のないまま独自の進化をたどってきました。
北太平洋の2集団と日本近海
北東太平洋亜種(P. p. vomerina)はアラスカ〜カリフォルニア沿岸に分布します。北西太平洋の未命名個体群は、日本海〜ウラジオストク〜ベーリング海峡までの範囲に分布します。日本近海の北海道・東北沿岸で観察されるのは、この北西太平洋の集団にあたります。世界全体で少なくとも70万頭以上と推定される個体数は、鯨類のなかでも上位に入る数となっています。
ハンドウイルカが襲う稀有な種
ネズミイルカの主な天敵はホホジロザメとシャチですが、特殊な捕食者として近縁のハンドウイルカが挙げられます。スコットランド沿岸などでは、ハンドウイルカがネズミイルカを執拗に攻撃し、殺害する行動が繰り返し観察されてきました。しかもハンドウイルカはこの獲物を食べません。餌となる魚をめぐる競合排除の説と、若い個体を自分の仔と誤認して殺す「子殺し(インファンティサイド)」の説が指摘されています。もう一つの珍しい捕食者はハイイロアザラシで、ネズミイルカの皮下脂肪を高エネルギー源として噛みちぎる行動が観察されています。小型で外敵の多いネズミイルカは、日々こうした複数の脅威をかいくぐって暮らしている種です。
脅威と保全
刺し網の混獲がもっとも深刻
世界で毎年数千頭が混獲死
ネズミイルカにとってもっとも深刻な脅威は、底刺し網(gill net)による混獲です。世界中でネズミイルカの人為的死亡要因の第一に位置づけられ、毎年数千頭が黒海・バルト海・北海・カリフォルニア沖・北米東岸などで混獲死しています。刺し網は海底から最長23kmにわたって設置され、視力の弱いネズミイルカが気づかず絡まってしまいます。
ピンガーによる対策とその課題
対策として、網に音波を発する装置「ピンガー(pinger)」を取り付ける手法が有効と報告されています。ただし長期的にはネズミイルカがピンガー音に慣れて効果が薄れる懸念や、海洋の騒音公害を増やす副作用も指摘されています。EU諸国では小型鯨類の混獲を減らすための規制が段階的に導入され、日本近海でも底刺し網漁と本種の関係が今後の課題として認識されつつあります。
地域個体群の危機
バルト海・西アフリカ・黒海の危機
世界全体としてはIUCNの軽度懸念(LC・2023評価)に分類されますが、地域ごとにみると深刻な個体群も存在します。バルト海の亜個体群は500頭ほどしか残っておらず、絶滅寸前(CR)に分類されました。西アフリカ沿岸個体群もCR、黒海亜種はEN(絶滅危惧II類)に分類されています。閉鎖的な海域で人為的圧力を受けやすい地理条件が、これらの危機的状況につながっています。
複合的な環境脅威
過剰漁業による餌の激減や洋上風力発電の建設に伴う騒音も複合的な脅威です。加えて海洋汚染物質(PCB・重金属)の生物濃縮や気候変動による分布変化も課題となっています。頂点捕食者に近い位置にあるため、化学物質が組織に蓄積しやすく、繁殖期や飢餓期に体脂肪から放出されて健康影響を及ぼす可能性が指摘されています。
関連ページ

参考
- Wikipedia (英語版)「Harbour porpoise」(分類・形態・生態)
- IUCN Red List: Phocoena phocoena(LC・2023評価)
- NOAA Fisheries「Harbor Porpoise」(分布・脅威)
- Wisniewska, D. M. et al. (2016). “Ultra-High Foraging Rates of Harbor Porpoises Make Them Vulnerable to Anthropogenic Disturbance.” Current Biology 26(デンマーク沖の摂食行動研究)
- Patterson, I. A. et al. (1998). “Evidence for infanticide in bottlenose dolphins: an explanation for violent interactions with harbour porpoises?” Proc. R. Soc. B 265(ハンドウイルカによる殺害の解釈)


