イワシクジラは体長14〜17m・体重20〜30トンほどの大型ヒゲクジラで、細長い流線形の体をしています。名前どおりイワシの群れを追って現れることから「イワシ鯨」の名で親しまれてきました。ナガスクジラ科のなかでも速い方で、全力で泳げば時速50km近くにも達します。細くて速い体、そして水面をなでるように餌を漉す食べ方。この二つが本種の暮らしを支える柱です。20世紀の商業捕鯨で南半球だけで20万頭以上が捕獲され、現在はIUCN レッドリストの絶滅危惧種(EN・2018評価)に分類されています。他のヒゲクジラと比べても、水面近くを口を開けたまま泳ぐ「スキミング」というゆったりした食べ方を得意にする、少し変わった採餌スタイルを持つ種です。
分類と学名
分類階層
- 界:動物界 Animalia
- 門:脊索動物門 Chordata
- 綱:哺乳綱 Mammalia
- 目:鯨偶蹄目 Cetartiodactyla
- 下目:ヒゲクジラ下目 Mysticeti
- 科:ナガスクジラ科 Balaenopteridae
- 属:ナガスクジラ属 Balaenoptera
- 種:イワシクジラ Balaenoptera borealis
和名・英名
- 和名:イワシクジラ/鰛鯨(いわしくじら)
- 英名:Sei whale / Coalfish whale / Pollack whale
別名と名前の由来
和名の「イワシクジラ(鰛鯨)」は、日本近海でイワシの群れを追って現れる姿から付けられたと言われています。江戸時代の捕鯨業者や漁師のあいだで、イワシの豊漁の時期に沿岸へ寄ってくる大型鯨として知られていました。英名の「Sei whale」は、ノルウェー語でタラの一種を意味する「Sei(ポラック)」に由来。北欧の海でも同じようにタラの群れを追って現れる本種の習性が、そのまま名前になったものです。「イワシ」と「タラ」で対象は違いますが、どちらも「小魚を食べる大型鯨」という現地の呼び方が英名として国際的に定着しました。学名の Balaenoptera borealis は「鰭のあるクジラ」+「北方に住む」を意味し、1828年にドイツの博物学者レッソンが原記載しました。
大きさ・生息などの基本データ
| 大きさ | 体長 14〜17m(最大約20m)/体重 20〜30トン(最大約45トン) |
|---|---|
| 性的二型 | 雌のほうが雄より少し大きい |
| 体色 | 背側:暗い青灰色/腹側:白/胸びれ:短めで小さい |
| 背びれ | 大きな鎌型/体の後ろ寄りに立つ/潮吹きと同時に見える |
| ヒゲ板 | 片顎に300〜410枚/繊維が細かく、カラヌス類の濾過に向く |
| 分布 | 全世界の海洋(温帯〜亜寒帯/極域と熱帯は少ない) |
| 食性 | カラヌス類(カイアシ類)/オキアミ/小魚(イワシ・ニシン・カラフトシシャモ) |
| 遊泳速度 | 巡航約13〜21km/h/全力遊泳で最大約50km/h(ナガスクジラ科最速級) |
| 潜水 | 通常5〜15分/浅めの潜水を好む |
| 繁殖 | 妊娠 約11〜12ヶ月/仔4.5m前後/授乳約6〜9ヶ月 |
| 寿命 | 約60〜70年 |
| 世界個体数 | 約8万頭(捕鯨前は南半球だけで約20〜30万頭) |
| 保全状況 | IUCN:絶滅危惧種(EN・2018評価)/CITES附属書I/IWC全面保護(1979年〜) |
名前の由来──「イワシを追うクジラ」
日本と北欧で共通する呼び名の理屈
日本では「イワシ」
日本近海でイワシクジラは、春先にマイワシの大群を追って北上する姿がよく観察されてきました。江戸時代から明治にかけての捕鯨業者にとっても、イワシの豊漁と本種の来遊は季節を示す目安。「イワシが来る時期に現れる大きな鯨」という認識が、そのまま和名として定着したものです。イワシそのものを主食にしているわけではなく、実際にはオキアミやカラヌス類(カイアシ類)を食べる時期の方が長いとされます。それでも日本人の目には、イワシ漁と結びつく姿の方が強く印象に残ったようです。
北欧では「タラ(Sei)」
英名の Sei はノルウェー語でタラの仲間「Pollachius virens(コールフィッシュ/ポラック)」を指す言葉です。ノルウェー沿岸では、Sei の群れが来る時期に本種も一緒に現れることから「Sei whale」と呼ばれてきました。日本の「イワシ」と北欧の「タラ」で相手は違うのですが、両方とも「餌魚の来る時期に姿を見せる鯨」という共通の視点で名付けられている点が興味深いところです。実際には本種は餌魚そのものを主食にせず、餌魚と同じ場所に集まるプランクトンを狙っていると考えられています。
ナガスクジラ科最速級・時速50kmの遊泳

細長い流線形と大きな背びれ
イワシクジラの体は、ナガスクジラをそのまま少し小さくしたような細長い流線形をしています。他のヒゲクジラのなかでもとくにスマートな姿で、水の抵抗を最小限に抑える形をしています。背びれは体の後ろ寄りに立つ大きな鎌型。潮吹きの直後に背中と一緒に大きく水面から見えるため、ホエールウォッチングでの識別ポイントの一つになっています。ナガスクジラのように背中を大きく反らせないので、その点でも見分けがつきます。
全力で時速50km近くの遊泳
本種の遊泳能力はナガスクジラ科でも高い方で、全力で泳げば時速50km近くに達すると計測されています。この俊足のおかげで19世紀以前の帆船捕鯨では捕獲がほぼ不可能で、シロナガスやナガスと同じく、爆発銛と蒸気船が普及する20世紀に入ってから商業捕鯨の主対象になった経緯があります。日常の巡航速度も時速13〜21kmとかなり速く、他のヒゲクジラより一回り機敏な印象を与えます。
スキミング採餌──セミクジラと同じ食べ方

ゆっくり泳ぎながら漉すスタイル
セミクジラと同じ食べ方
イワシクジラの採餌法で特徴的なのが「スキミング(skimming)」と呼ばれる食べ方です。水面近くを口を大きく開けたままゆっくり泳ぎ、水を漉すようにヒゲ板の内側にカラヌス類を溜めていきます。他のナガスクジラ科(シロナガス・ナガス・ザトウなど)が「ランジフィーディング(突進採餌)」を行うのとは対照的なスタイル。むしろセミクジラ類に近い食べ方といえます。
密なヒゲ板がカラヌスを漉す
ヒゲ板が細かく密に並んでいるのも、小さなカラヌスを漉し取るのに適した構造です。片顎に300〜410枚のヒゲ板が並び、目の細かなフィルターとして働きます。1mm程度の小さなカラヌス類が主食であるため、他のヒゲクジラのようなオキアミ狩りとは違う、より繊細な漉し取りが必要とされます。
状況によっては突進採餌もできる柔軟さ
本種は状況に応じて突進採餌(ランジ)もできる柔軟さを持ち、小魚の群れを狙うときはスキミングとランジを組み合わせて食べると分かってきました。ナガスクジラ科のなかでは食性の幅が広い種のひとつで、餌の状況によって食べ方を切り替えるこの柔軟さが、他のヒゲクジラより幅広い海域に分布できる理由の一つと考えられています。
発声──10Hz級の低周波

イワシクジラの発声は10〜100Hz前後の低い音が中心で、数百km単位で伝わる長距離コミュニケーションに使われていると考えられています。ナガスクジラの20Hzパルスやシロナガスクジラの低周波発声とは音質が違うものの、大型ヒゲクジラらしい「低くて長い」鳴き方を共有します。個体数が少ないため録音記録もそれほど多くなく、地域集団ごとの声のバリエーションについてはまだ研究の途上です。潜水艦のソナー研究の副産物として蓄積された海洋音響データの中から、後年ようやく本種の発声パターンが特定された経緯があります。
回遊と分布

イワシクジラは全世界の海洋に広く分布し、とくに温帯〜亜寒帯の海に多く生息します。北大西洋・北太平洋・南半球のそれぞれで独立した集団を形成しているとされ、極域の氷海と熱帯には基本的に入らないのが特徴です。夏は餌の豊富な高緯度海域(アラスカ湾・オホーツク海・南極海の縁辺など)で採餌し、冬は温帯へ回遊して繁殖と出産を行うのが基本パターン。ただしその年の餌の状況によって回遊経路や来遊時期が大きく変わり、「予測しにくい鯨」として知られてきました。日本近海では小笠原沖・伊豆諸島・北海道沖などで観察されており、季節によっては東北〜北海道沖でホエールウォッチングの対象にもなっています。
20世紀の捕鯨で20万頭超
シロナガス・ナガスの次に狙われた種
南半球で20万頭以上
イワシクジラは19世紀までは俊足のため捕鯨の対象になりませんでした。しかし20世紀の商業捕鯨でシロナガスクジラとナガスクジラが次々に激減すると、捕鯨業者の関心は本種に移ります。1960年代から南半球を中心に大規模な捕獲が始まり、南半球だけで約20万頭以上、北半球でも数万頭が捕獲されたとされます。1950年代に始まった南極海でのシロナガス・ナガス減少後の「代替対象」として、約20年で個体数が壊滅的に減った経緯があります。
1979年のIWC全面保護
国際捕鯨委員会(IWC)は1979年に南半球で、1980年代前半に北半球でも本種の商業捕鯨を全面停止しました。現在の世界個体数は約8万頭とされ、捕鯨前の約1/4〜1/3程度まで減った状態から、ゆっくりと回復している段階です。ザトウクジラのような明確な個体数回復はまだ確認できていません。近年は日本を含む一部の国で調査捕鯨として少数が捕獲されていますが、IWCモラトリアム下での再開議論と絶滅危惧種指定のあいだで、国際的にはデリケートな位置にある種となっています。
現在の脅威
捕鯨が終わってからも脅威は残っています。大型船舶との衝突(船舶ストライク)や、刺し網・延縄への漁具混獲が主な要因です。加えて海洋騒音による繁殖阻害と、気候変動による餌のカラヌス類の分布変化が本種の回復を難しくしています。北大西洋の集団はとくに個体数が少なく、地域ごとに置かれた状況にはかなり差があります。IUCN・CITES・CMSの各枠組みで国際的な保全対象となっていますが、実効性ある回復にはまだ長い年月が必要とされる種です。
関連ページ


参考
- Wikipedia (英語版)「Sei whale」(分類・形態・生態)
- IUCN Red List: Balaenoptera borealis(EN・2018評価)
- NOAA Fisheries「Sei Whale」(分布・脅威・保護状況)
- Horwood, J. (1987). The Sei Whale: Population Biology, Ecology and Management. Croom Helm(本種の個体群と生態の総説)
- Prieto, R. et al. (2012). “Sei whale movements and behaviour in the North Atlantic inferred from satellite telemetry.” Endangered Species Research 17: 145-157(北大西洋の回遊研究)
画像出典
- NOAA, Public domain, via Wikimedia Commons(アイキャッチ・側面図と鎌型背びれ)
- Carina Gsottbauer, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons(フォークランド沖の突進採餌)
- NOAA, Public domain, via Wikimedia Commons(上空から見た全身)
- Carina Gsottbauer, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons(大きな背びれ)
- Calliopejen, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons(アラスカ周辺の分布図)


