クロザルは、インドネシア・スラウェシ島北部にのみ暮らす体長44〜60cmの中型のサルです。学名は Macaca nigra。全身を覆う漆黒の毛並みと、頭頂に立ち上がった特徴的なトサカ状の毛が印象的な種として知られています。英名では「Celebes Crested Macaque(セレベスクレステッドマカク)」と呼ばれ、日本の動物園では「クロザル」または「クロシシオザル」の名前で親しまれています。
本種は2011年の「モンキーセルフィー」事件の主役となった種でもあります。1匹のメスが写真家のカメラを操作して撮った自撮り画像を巡り、動物の著作権を巡る国際的な訴訟が起きた経緯は、法学・動物福祉学・著作権論の交差点として広く議論されました。話題性の裏で、本種は生息地の減少と食用狩猟で個体数が壊滅的に減り、IUCNレッドリストでは絶滅危惧IA類(CR)に指定されています。
分類と学名
分類階層
- 界:動物界 Animalia
- 門:脊索動物門 Chordata
- 綱:哺乳綱 Mammalia
- 目:サル目 Primates(霊長目)
- 亜目:直鼻猿亜目 Haplorhini
- 下目:真猿下目 Simiiformes
- 科:オナガザル科 Cercopithecidae
- 亜科:オナガザル亜科 Cercopithecinae
- 属:マカク属 Macaca
- 種:クロザル Macaca nigra
和名・英名・別名
- 和名:クロザル(黒猿)
- 別名:クロシシオザル(黒獅子尾猿)
- 英名:Celebes Crested Macaque/Sulawesi Crested Macaque/Crested Black Macaque
- ドイツ語名:Schopfmakak(トサカのあるマカク)
- インドネシア語名:Yaki(ヤキ)/Wolai(現地名)
名前の由来
- 和名「クロザル」:「黒+猿」の直訳的な合成語。全身を覆う漆黒の体色に由来する和名です。
- 別名「クロシシオザル」:頭頂の立ち上がったトサカ状の毛がライオン(獅子)を思わせることに由来する古い和名です。
- 属名 Macaca:ポルトガル語で「サル」を意味する “macaco” に由来。西アフリカでの現地名 “macaque” が学名化された経緯を持ちます。
- 種小名 nigra:ラテン語で「黒い」の意味。体色を反映した種名です。
- 英名「Celebes Crested Macaque」:「セレベスのトサカあるマカク」の意味。旧地名「セレベス(現在のスラウェシ島)+トサカ状の頭部+マカク」の合成語です。
大きさ・生息などの基本データ
| 大きさ | 頭胴長:オス52〜60cm・メス44〜57cm/尾長:極めて短い(1〜2cm程度)/体重:オス9〜11kg・メス5〜6kg/オスがメスの約1.5〜2倍と顕著な性的二型 |
|---|---|
| 体色 | 全身:漆黒の毛並み/顔:無毛の黒〜灰色の皮膚/頭頂:立ち上がった黒いトサカ状の長毛/臀部:ピンク色の無毛の座骨結節(sitting pad)/目:琥珀色〜褐色 |
| 身体特徴 | ずんぐりした頑丈な体型/短い尾(マカク属では例外的に極めて短い)/頭頂のクレスト(トサカ)が最大の識別ポイント/突き出た口吻/大きな犬歯(オス) |
| 分布 | インドネシア・スラウェシ島北端(北スラウェシ州の Tangkoko-Batuangus 自然保護区周辺)/同島以外への自然分布はなし/スラウェシ島固有種 |
| 生息環境 | 熱帯常緑樹林・二次林・河畔林/地上性と樹上性の中間型/地上での採食・樹上での休息と睡眠が基本/標高0〜1,300mまで |
| 食性 | 雑食性・果実中心/果実(約70%)・種子・葉・花・キノコ/昆虫・小型脊椎動物・カエル・鳥の卵(約20%)/時に土壌摂食も観察される |
| 繁殖 | 繁殖期:年間を通じて可能(明確な季節性なし)/妊娠期間:約174日/通常1頭出産/授乳期間:約12か月/性成熟:メス3〜4年・オス5〜6年 |
| 寿命 | 野生:推定15〜18年/飼育下:25〜35年 |
| 保全状況 | IUCN:絶滅危惧IA類(CR)/CITES附属書II/過去40年で個体数80〜90%減少との推定/野生残存個体数:推定約4,000〜5,000頭 |

モンキーセルフィー事件
2011年の撮影と拡散
写真家のカメラを操作したメス
2011年、イギリスの野生動物写真家David Slaterがインドネシア・スラウェシ島北部でクロザルの撮影を行っていました。その際に群れの中の1頭のメス(後に「Naruto」の名で知られる)がカメラを触り、シャッターボタンを何度も押します。結果として、多くの自撮り画像が撮影されました。中でもメスが正面を向いて歯を見せる1枚は、「モンキーセルフィー(monkey selfie)」として世界中に拡散し、本種の名を一躍有名にしました。
Wikimediaでの著作権論争
この画像はやがて Wikimedia Commons に「動物が撮影した写真は著作権法上のパブリックドメイン」として掲載されました。カメラを所有していたDavid Slaterは自身の著作権を主張し画像削除を求めましたが、米国著作権局・アメリカ・イギリスの複数の判例は「著作権は人間の創作者にのみ帰属する。動物が撮影した画像に著作権は発生しない」との立場を採り、パブリックドメインの位置づけが維持される結論となりました。

PETA vs Slater 訴訟(2015〜2018)
動物愛護団体が提訴
2015年、動物愛護団体PETA(People for the Ethical Treatment of Animals)が「撮影した個体自身(Naruto)が著作権を持つべき」と主張。David Slaterと出版社を相手取ってアメリカ連邦裁判所に提訴しました。この訴訟は動物の法的な人格・著作権保持能力を巡る画期的な事件として国際的な注目を集め、法学・生物倫理学の議論を大きく喚起する結果となりました。
2018年の和解
2018年、当事者間で和解が成立し、David Slaterが本種の保全のために将来の収益の25%を寄付することで合意しました。裁判所は「著作権法は動物には適用されない」との判断を維持しつつも、事実上PETAの主張の一部が達成される形となりました。この事件を通じて集められた注目と資金は、皮肉にもクロザル保全の啓発と資金調達に大きく寄与した側面を持ちます。

トサカと黒い体─姿の特徴
頭頂のクレスト
立ち上がる長毛のトサカ
本種の最も分かりやすい形態的特徴は、頭頂に立ち上がった黒いトサカ状の長毛(クレスト)です。額から後頭部にかけて長い毛が上向きに伸び、興奮時や威嚇時にはさらに逆立って大きく見せる効果を発揮します。この特徴はマカク属の中でも本種と近縁の数種(ゴンタルマカク Macaca tonkeana など)にのみ見られる形質で、他のマカク類との識別ポイントになっています。
ライオンのような外観
頭頂のクレストと突き出た口吻が組み合わさることで、遠目にはライオンのタテガミとマズルを思わせます。「クロシシオザル(黒獅子尾猿)」の別名を持つのもここからです。動物園でも高い視認性を発揮し、来園者にとって忘れがたい姿として記憶されます。
ピンクの臀部と極短い尾
マカク属で稀な超短尾
マカク属の多くの種は10〜60cm程度の尾を持ちますが、本種の尾はわずか1〜2cmと極めて短く、遠目には尾が無いように見えます。この超短尾はテングザルなど他の霊長類にも見られる特徴ですが、マカク属の中では珍しく、本種と近縁のスラウェシ島固有の数種にのみ見られる系統的な特徴です。
目立つ座骨結節
本種の臀部にはピンク色の無毛部分「座骨結節(ischial callosities)」が目立ちます。長時間座って過ごす樹上生活のクッションとしての機能があり、他のオナガザル科と共通する形質です。メスの繁殖期には座骨結節が赤みを帯びて膨らむ「性皮の腫脹」が起こり、繁殖状態を視覚的に告知する信号として機能します。

大群社会と生態
30〜100頭の群れ
マルチメール・マルチフィメールの構造
クロザルは通常30〜100頭の中〜大規模な群れを形成します。複数のオスと複数のメス、その子供たちが同居する形。群れの中には明確な順位関係があり、優位オスが繁殖の中心を担う一方、メス間にも母系の順位が世代を超えて継承される構造が観察されています。
「歯を見せる笑い」の意味
クロザルは歯を大きく見せて口を開ける表情を頻繁に見せます。「笑っているように見える」この表情は、実際には親和的な挨拶または劣位個体が優位個体に対して行う服従・宥和の信号です。「モンキーセルフィー」の写真でメスが歯を見せる表情も、笑顔ではなくカメラを覗いた際の緊張・興奮の反応と解釈されるべき行動です。霊長類の表情解釈は人の直感と食い違う点も多く、本種はその代表的な事例として引用されます。
採食と移動
果実採食が中心
本種の食性は雑食ですが、果実が総摂食時間の約70%を占める果実食中心の霊長類です。イチジク属(Ficus)・パンノキ属など、スラウェシ島に豊富な熱帯性の果実を主食とし、季節による果実の入手可能性に応じて食物を切り替えます。地上での採食が多く、群れは日中に森の中を数kmにわたって移動しながら採食します。
種子散布者としての役割
大量の果実を食べ、糞と共に消化されない種子を森の各所へ散布することで、本種はスラウェシ島の森林生態系における重要な種子散布者として機能しています。個体数減少は種子散布機能の低下を通じて森林の再生にも影響を及ぼす可能性が指摘されており、生態系サービスの観点からも保全上の重要性が高い種と評価されています。

絶滅危惧IA類の危機
個体数の壊滅的減少
過去40年で80〜90%減
クロザルは、IUCNレッドリストで絶滅危惧IA類(Critically Endangered・CR)に指定されている霊長類の1種です。1980年代に約30万頭とされた個体数は、2020年代の推定で約4,000〜5,000頭まで減少したとされます。過去40年間で個体数の80〜90%が失われた計算です。この減少速度は世界の霊長類の中でも最速級で、絶滅の淵に立つ種として国際的な保全対象となっています。
減少の主要因
個体数減少の主な要因は次のとおりです。
- 食用としての狩猟:スラウェシ北部では伝統的に本種の肉が食用となる文化があり、市場で流通する
- 生息地の消失:農地開発・パーム油プランテーション拡大による熱帯雨林の伐採
- ペット目的の捕獲:子供が違法に捕獲され地域市場で売られる
- 人為的な火災:農地開拓に伴う森林火災の巻き添え
- 道路建設による生息地断片化
特に食用狩猟は、スラウェシ北部のミナハサ族の伝統的な食文化と結びついているため、単純な禁止だけでは解決が難しい状況にあります。保全団体は地域住民との対話・代替タンパク源の提供・持続可能な生計手段の支援など、社会経済的なアプローチを組み合わせた取り組みを進めています。
Tangkoko国立公園と保全活動
主要生息地の保護
本種の最大の生息地は、スラウェシ島北端のTangkoko-Batuangus自然保護区(約8,700ヘクタール)です。ここでは複数の国際的保全団体が長期研究と保全活動を継続しており、Macaca Nigra Project や Selamatkan Yaki(「ヤキを救え」の意味)などの現地NGOが個体群モニタリング・住民教育・違法狩猟の取り締まり支援などを担っています。「モンキーセルフィー」訴訟で得られた寄付金の一部も、これらの保全団体を通じて活用されています。
飼育下繁殖と国際協力
世界各地の動物園でクロザルの飼育下繁殖プログラムが進められており、EAZA(欧州動物園水族館協会)とAZA(北米動物園水族館協会)の血統管理下で健全な飼育下個体群が維持されています。飼育下個体数は野生の推定数を上回る可能性もあり、種の存続を支える保険的な役割を担っています。日本国内では、ズーラシア・上野動物園・多摩動物公園・京都市動物園などが本種の飼育で知られる施設です。

スラウェシ島固有マカクの多様性
スラウェシ島は「マカクの島」
スラウェシ島は世界的なマカク属の多様性の中心地として知られ、島内には複数の固有マカクが分布します(分類研究者によっては7種とする説もあります)。地理的な隔離と生息地の多様性により島内での種分化が進んだ結果と考えられ、進化生物学の重要な研究対象となっています。
| 学名 | 和名/英名 | 分布・特徴 |
|---|---|---|
| Macaca nigra | クロザル(本種)/Celebes Crested Macaque | 北スラウェシ・トサカ・IUCN CR |
| Macaca tonkeana | ゴンタルマカク/Tonkean Macaque | 中央スラウェシ・IUCN VU |
| Macaca hecki | ヘックマカク/Heck’s Macaque | 北西スラウェシ・IUCN VU |
| Macaca maura | ムーアマカク/Moor Macaque | 南西スラウェシ・IUCN EN |
| Macaca ochreata | オクレアタマカク/Booted Macaque | 南東スラウェシ・IUCN VU |
マカク属全体の中での位置
マカク属(Macaca)はアジア・北アフリカに広く分布する20種以上のグループで、旧世界ザル最大のサル属です。日本のニホンザル(Macaca fuscata)と同じ属で、系統的にも近縁関係にあります。クロザルは特に短尾・黒色・クレストの3特徴で他のマカク属種と区別され、進化的に隔離されたスラウェシ島内で独自の系譜を形成しました。

クロザルから学ぶこと
話題性と実像のギャップ
クロザルの事例は、SNS時代の動物ニュースの光と影を象徴する存在といえます。「モンキーセルフィー」というキャッチーな話題で世界的な認知度を獲得した一方、その裏では絶滅の危機が加速している実状は広く共有されているとは言えません。話題性と実像のギャップは、本種に限らず動物保全全般に共通する課題として、環境コミュニケーションの重要な学びを提供しています。
著作権法と動物の境界
モンキーセルフィー訴訟が投げかけた「動物には著作権が発生するか」という問いは、法哲学・動物福祉学・環境倫理学が交差する現代的な論点として今も議論が続いています。裁判所は「著作権は人にのみ帰属する」と判断しましたが、動物の法的地位を再考するきっかけを提供した点で、事件の歴史的意義は大きいと評価されています。

関連








参考
- Wikipedia日本語版: クロザル
- IUCN Red List: Macaca nigra (CR)
- CITES: Macaca nigra 附属書II
- Selamatkan Yaki(現地保全団体)
- Macaca Nigra Project(長期研究プロジェクト)
画像出典
- Roland Godon, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons(アイキャッチ・スラウェシ)
- Public Domain, via Wikimedia Commons(モンキーセルフィー全身版)
- John Tasirin, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons(スラウェシ2024)
- Mark Bolnik, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons(スラウェシ2015)
- Mark Bolnik, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons(スラウェシ2015・別カット)
- Fabian Horst, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons(ドイツ・Tierpark Gettorf)
- Public Domain, via Wikimedia Commons(モンキーセルフィー有名版)
- Jean-Paul Boerekamps, CC0, via Wikimedia Commons(スラウェシ2022)
- R.Rahasia, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons


