タテヒダイボウミウシは、体長最大12cmほどの中型ウミウシです。黒地の背中に水色〜青紫の縦の隆起(縦ヒダ)が並び、その上に鮮やかな黄橙色のイボが散らばります。学名は Phyllidia varicosa。インド洋から西太平洋の熱帯サンゴ礁に広く分布し、ダイビングでもよく撮影される種です。餌の海綿から取り込んだ9-イソシアノプケアナン(9-isocyanopupukeanane)という強い神経毒を体表から分泌し、小さな水槽内なら他の魚を殺すほどの威力を持つ、ウミウシのなかでも屈指の化学防御を持つ種として知られます。派手な色使いは、この毒を捕食者に知らせる警告色として働きます。
分類と学名
分類階層
- 界:動物界 Animalia
- 門:軟体動物門 Mollusca
- 綱:腹足綱 Gastropoda
- 目:裸鰓目 Nudibranchia
- 亜目:ドーリス亜目 Doridina
- 科:タテヒダイボウミウシ科 Phyllidiidae
- 属:Phyllidia
- 種:タテヒダイボウミウシ Phyllidia varicosa
和名・英名
- 和名:タテヒダイボウミウシ(縦襞疣海牛)
- 英名:Varicose phyllidia / 別名 Scrambled egg nudibranch(ハワイでの通称)
別名と名前の由来
和名の「タテヒダ」は、背中に走る縦方向の隆起(ひだ)を、「イボ」はその上に並ぶ黄色い突起を表しています。属名 Phyllidia はギリシャ語の「phyllon(葉)」から派生し、平たく葉のように広がる体形を指しています。種小名 varicosa はラテン語で「静脈瘤のような」の意で、体表の隆起が浮き出た血管のように見えることに由来します。ハワイでは、モザイクの黒黄配色が朝食の目玉焼きに似ることから通称「Scrambled egg nudibranch」と呼ばれます。1801年、フランスの博物学者ジャン=バティスト・ラマルクによって新種として記載されました。
大きさ・生息などの基本データ
| 大きさ | 体長 6〜10cm(最大約12cm) |
|---|---|
| 体色 | 黒地/水色〜青紫の縦隆起/黄橙色のイボが縦列に並ぶ |
| 体形 | 平たい楕円形/背中に4〜5本の縦の隆起(縦ヒダ)/その上に多数のイボ |
| 鰓 | 背中には無く、体の縁の下(外套膜と足の間)に列状に並ぶ/タテヒダイボウミウシ科の共通の特徴 |
| 分布 | インド洋〜西太平洋の熱帯(紅海・アフリカ東岸〜日本・オーストラリア・ハワイ) |
| 生息環境 | サンゴ礁の岩・海綿の近く(水深3〜30m前後) |
| 食性 | 海綿を食べる(Hyrtios erectus など特定の種)/海綿由来の化学物質を体に貯める |
| 寿命 | 約1年(イロウミウシ類と同様) |
| 保全状況 | IUCN未評価。広域分布・観察例多数で個体数は安定と見られる |

9-イソシアノプケアナン、ウミウシで最も強い毒
1975年にハワイ大学で発見された神経毒
閉鎖水槽で他の魚を殺すほどの威力
タテヒダイボウミウシの最大の特徴は、体表から分泌する強い神経毒です。1975年、ハワイ大学のScheuer研究室がこの種の体組織から新種の化学物質を単離し、ハワイ・オアフ島の地名「Pupukea」(ハワイ語で「白い貝殻」の意)から9-イソシアノプケアナン(9-isocyanopupukeanane)と命名しました。閉鎖水槽の中で本種と他の魚を同居させると、数十分〜数時間で魚が神経麻痺を起こして死亡する例が報告されており、ウミウシのなかでも屈指の化学防御を持つ種として知られます。
刺激を受けたときに白い粘液で放出
タテヒダイボウミウシは、外敵に触られたり強い刺激を受けたりすると、体表全体から白い粘液を分泌します。この粘液に9-イソシアノプケアナンが溶け込んでおり、周囲の海水を汚染することで捕食者を追い払う仕組みです。ダイバーが素手で触ると数分後に指先がしびれることがあり、水中でも扱いに注意が必要な種とされています。
毒の由来は餌の海綿
9-イソシアノプケアナンは、餌にする Hyrtios erectus などの海綿に含まれる二次代謝物です。タテヒダイボウミウシはこれを消化せず体内に取り込んで蓄え、必要に応じて濃度を調整して放出します。イロウミウシ類が海綿の毒を借りるのと同じ戦略ですが、本種が扱う9-イソシアノプケアナンは特に毒性が強く、実際に他の海洋動物を殺傷できる濃度で貯められる点が違います。

縦のヒダと黄橙のイボ、警告色の意匠
背中を貫く4〜5本の縦の隆起
縦ヒダは水色〜青紫に染まる
タテヒダイボウミウシの背中には、頭部から尾部まで走る4〜5本の縦の隆起(縦ヒダ)が並んでいます。隆起の上面は水色〜青紫に染まり、間の谷は真っ黒に落ち込みます。この縦の走りが「タテヒダ」という和名の直接の由来です。
隆起の上に黄橙のイボが縦列
縦ヒダの上には鮮やかな黄橙色のイボが列状に並び、体全体を派手に飾り立てます。イボの大きさや数は個体差があり、大きい個体ほどイボが盛り上がって立体的な印象になります。頭部と尾部の縦ヒダは合流して1本になる個体が多く、この形が同属他種との識別にも使われます。
派手な色は「強い毒あり」の合図
黒・青紫・黄橙のはっきりした色対比は、魚などの捕食者に対する警告色(aposematism)です。派手な色そのものが「食べるとしびれる」というサインとなり、9-イソシアノプケアナンの強さと組み合わさって、大型の捕食者はほぼ手を出しません。実際、フィリピンやインドネシアのダイビングポイントでも、タテヒダイボウミウシを狙う魚の姿はほとんど観察されないと報告されています。

鰓は背中でなく体の縁の下にある
多くの裸鰓類(ドーリス亜目)は背中の中央後方に花状の鰓を開きますが、タテヒダイボウミウシ科ではこの背中の鰓が消え、代わりに体の縁の下(外套膜の縁と足の間)に細い葉状の鰓が列状に並びます。この構造から、以前の分類ではタテヒダイボウミウシ科を独立した目「側鰓目」として扱っていた時期もありました。現在は裸鰓目の中の1科として整理されていますが、鰓の位置が違うため見た目の印象がイロウミウシ類と大きく異なる点は、他のウミウシとの見分けポイントとして知られています。

雌雄同体、白いリボンで産卵
2個体が精子を交換して両方が産卵
短時間で終わる交尾
ウミウシ全般と同じく雌雄同体で、出会った2個体は互いに精子を交換して両方が卵を産みます。タテヒダイボウミウシ科の交尾は他のウミウシと比べて短時間で終わる傾向があるとされます。
密度の高い場所では隣接個体が次々に交尾
個体密度の高い場所では、隣接する個体同士がすぐに交尾行動に入る様子が観察されるのも特徴の1つです。ダイビングで複数個体を同時に見つけたら、そのまま観察していると交尾行動に移るケースも珍しくありません。
螺旋の白いリボンで数万個を放出
産卵時には Hyrtios erectus など毒カイメンのそばに幅数mm・全長10cm前後の白いリボン状の卵塊を貼り付け、稚ウミウシが着底後すぐに 9-イソシアノプケアナンを取り込める環境を用意します。1回の産卵で数千〜数万個の卵を放出し、孵化した幼生は数週間プランクトンとして海中を漂ったのち、餌の海綿の近くに着底して稚ウミウシに変態します。寿命は1年ほどで、他のウミウシと同じく短命な種です。

紅海から日本まで、インド太平洋の広域種
水深3〜30mのサンゴ礁で見つかる
タテヒダイボウミウシはインド洋〜西太平洋の熱帯に広く分布し、紅海・アフリカ東岸からハワイ・オーストラリア・日本の南西諸島まで観察されます。水深3〜30mが観察の中心で、サンゴ礁の岩の下や海綿の近くをゆっくり這って餌を探しています。ダイビングでは日中でも見つかりやすく、鮮やかな色姿から水中写真の被写体として人気があります。
日本では沖縄以南の代表種
日本国内では奄美・沖縄以南のダイビングスポットで頻繁に撮影される代表種になります。慶良間諸島・八重山諸島・座間味などで通年観察例があり、南西諸島のウミウシガイドでは必ず取り上げられる種の1つです。本州の南岸でもまれに観察記録があり、暖流に乗って流れ着いた個体と見られています。

コイボ・ソライロ・キイロ、色柄で見分ける同科3種
黒白・青縞・黄斑で見分ける日本近海の3種
タテヒダイボウミウシ科は世界に約80種以上が知られる小さなグループで、いずれも背中の鰓がなく体の縁の下に鰓を並べる点で共通します。日本近海の代表的な近縁種は次のとおりです。
- コイボウミウシ Phyllidiella pustulosa(黒地に白いイボ)
- ソライロイボウミウシ Phyllidia coelestis(青地に3本の黒縞)
- キイロイボウミウシ Phyllidia ocellata(黄地に黒斑)
いずれも同じような化学防御を持ち、ダイビングでは同じ岩礁で複数種が並んで見つかることもあります。色柄の違いで見分ける楽しさがある一群です。

関連


マリンドラッグ研究の起点となった 9-isocyanopupukeanane
ハワイ大学シェーラー研究室の位置づけ
ハワイ大学マノア校のポール・J・シェーラー(Paul J. Scheuer)研究室は、1960年代からハワイ近海の海洋無脊椎動物や海藻を対象に、医薬品候補となる化合物を単離する研究を先駆的に進め、後年に「マリンドラッグ(海洋天然物化学)研究の草分け」として位置づけられるようになりました。同研究室ではウミウシ類や海綿など、体内に化学防御物質を蓄える生物を系統的に扱い、後続の海洋天然物化学の教科書に多数の化合物名を残しています。日本人研究者を含む多くの留学者を育てた点でも、この分野の人材形成の拠点として知られます。
初の海洋テルペンイソニトリル発見としての意義
タテヒダイボウミウシは、シェーラー研究室らによって 9-isocyanopupukeanane と呼ばれる、テルペン骨格に -NC(イソニトリル)基が結合した化合物が単離された種として知られます。この化合物は海洋生物から報告された初期のテルペン系イソニトリル化合物例の1つとされ、以後、海綿やウミウシから相次いで報告されるイソニトリル系防御物質研究の出発点となりました。物質名に含まれるハワイ語「プープーケアナネ(pupukeanane)」は発見地の地名にちなむとされ、海洋天然物の命名慣行の一例としても引用されています。


