アオリカ・パピロサは、体長5〜12cmになる北大西洋の代表的なアオリカ類で、白灰〜淡褐色の柔らかなミノ(cerata)が背中全体を毛皮のように覆います。英名 Shag-rug nudibranch(毛足の長い敷物ウミウシ)は、この背中のふさふさとした質感が古い時代の毛足の長いラグに似ることに由来します。学名は Aeolidia papillosa。イソギンチャクを専食する肉食のウミウシで、餌のイソギンチャクが持つ刺胞細胞を消化せず自分のミノに貯め、自分の防御に転用する「刺胞盗用(クレプトクニード)」を持つ種として知られます。地味な体色ながら、化学と刺胞の二段構えで身を守る戦略が特徴です。
分類と学名
分類階層
- 界:動物界 Animalia
- 門:軟体動物門 Mollusca
- 綱:腹足綱 Gastropoda
- 目:裸鰓目 Nudibranchia
- 下目:アオリカ下目 Aeolidida
- 科:アオリカ科 Aeolidiidae
- 属:Aeolidia
- 種:アオリカ・パピロサ Aeolidia papillosa
和名・英名
- 和名:アオリカ・パピロサ(日本近海に分布せず、学名のカタカナ表記が通称)
- 英名:Shag-rug nudibranch(毛足の長い敷物ウミウシ)/ 別名 Grey sea slug
別名と名前の由来
種小名 papillosa はラテン語で「乳頭状の突起を持つ」の意で、背中に密生するミノ(cerata)を指しています。属名 Aeolidia はギリシャ神話の風の神アイオロスに由来し、風になびくようなミノの形からつけられた古い属名です。英名 Shag-rug nudibranch は、19〜20世紀に流行した毛足の長いラグ(shag rug)にミノの並びが似ていることに由来する通称で、ヨーロッパのウミウシ愛好家の間で長く親しまれてきました。1761年、スウェーデンの博物学者リンネが Limax papillosa として記載した古い種で、後に Aeolidia 属に整理されて現在の学名になりました。
大きさ・生息などの基本データ
| 大きさ | 体長 約5〜10cm(最大約12cm) |
|---|---|
| 体色 | 白灰〜淡褐色〜灰紫/餌のイソギンチャクの色素で変化/頭部にV字型の白斑 |
| ミノ(cerata) | 背中全体に密生/体側から中央まで数百本/中に消化管の枝と刺胞細胞 |
| 分布 | 北大西洋両岸(ノルウェー〜地中海/カナダ〜メキシコ北部)/北太平洋にも記録 |
| 生息環境 | 岩礁・タイドプール・港の桟橋(水深0〜30m前後)/餌のイソギンチャクの近く |
| 食性 | イソギンチャクを専食(Metridium senile など温帯種が中心) |
| 寿命 | 約1年 |
| 保全状況 | IUCN未評価。北大西洋の観察例は多く、個体数は安定と見られる |

背中を覆う数百本のミノ=毛足の長い敷物
ミノの1本1本に消化管と刺胞が入る
体側から中央まで密生する数百本
アオリカ・パピロサの背中には、体側から中央まで数百本のミノ(cerata)が密生し、体全体を包みます。1本1本は柔らかい筋肉質で、中には消化管の枝と刺胞細胞を蓄える嚢(クニダック)が入っています。密度が高いため、背中は毛皮のような質感に見え、これが英名 Shag-rug の由来です。
頭部にV字型の白斑がある
頭部の上面には、白いV字型の斑があるのが本種の目印です。この白斑は近縁の Aeolidiella 属や Facelina 属との識別にも使われ、フィールドで観察するときの決め手になります。触角は他のアオリカ類より短く、根元から先端まで滑らかな形をしています。

イソギンチャクを専食し、刺胞を武器に借りる
Metridium senile などの温帯イソギンチャクが主な餌
大型のイソギンチャクにも挑む
アオリカ・パピロサの主食は、北大西洋の岩礁に付く Metridium senile(プルームアネモネ)などの大型イソギンチャクです。自分と同じか大きい個体を襲うこともあり、触手をかじって少しずつ食べていきます。刺胞に触れても本種は麻痺しない体質で、他の裸鰓類が近づけない餌を独占できる強みを持ちます。
粘液のバリアで刺胞から身を守る
アオリカ・パピロサは体表全体を粘液で覆い、この粘液がイソギンチャクの刺胞細胞の発火を抑えることが分かっています。粘液に含まれる化学物質がイソギンチャクを「同種」と錯覚させるためとも言われ、餌のイソギンチャクは触られてもほとんど反撃せずに食べられていきます。
クレプトクニード(刺胞盗用)でミノに毒針を貯める
刺胞は消化されず嚢に運ばれる
食べたイソギンチャクの刺胞細胞(クニドサイト)は、消化されずミノ先端の嚢(クニダック)まで運ばれます。この仕組みをクレプトクニード(kleptocnidae/刺胞盗用)と呼び、アオリカ類の多くが共通して持つ生存戦略です。
触られると刺胞を発射する防御
ミノに貯められた刺胞は生きたまま機能し、外からの刺激を受けると発射されます。餌のイソギンチャクが持つ毒針が、そのままアオリカ・パピロサの防御武器として働く形です。地味な体色でも捕食者から避けられているのは、この二段構えの化学+刺胞防御があるためと考えられています。

北大西洋両岸・地中海まで、通年観察できる
ノルウェーから地中海、北米東岸まで広く分布
アオリカ・パピロサは北大西洋の両岸に広く分布し、東岸はノルウェー〜英国〜フランス〜地中海、西岸はカナダ〜メイン州〜マサチューセッツ州まで観察されます。北太平洋のアラスカ〜カリフォルニア沿岸にも記録があり、環北極分布に近い温帯種になります。日本近海には分布しません。
タイドプールでも見つかる浅場の種
生息水深は0〜30mが中心で、干潮時のタイドプールでも観察できる浅場の種です。餌のイソギンチャクが多く付く岩の下や、港の桟橋の柱・浮きロープなどが観察の中心地になります。ヨーロッパのウミウシ愛好家にとって最も身近な種の1つで、通年見つけられる代表的な裸鰓類として親しまれています。

雌雄同体、白いリボンの卵塊で数十万個
2個体が精子を交換して両方が産卵
ウミウシ全般と同じく雌雄同体で、出会った2個体は互いに精子を交換して両方が卵を産みます。餌のイソギンチャクが豊富な場所には複数個体が集まり、しばしば数個体が並んで観察されるのも本種の特徴の1つです。
白いリボン状の卵塊を岩に貼る
産卵時には Metridium senile など温帯のイソギンチャクのそばに幅数mm・全長5〜15cmの白いリボン状の卵塊を貼り付け、稚ウミウシが刺胞細胞を取り込める餌の近くで発生できるようにします。1回の産卵で数十万〜100万個の卵を放出することもあり、寒冷な海の高い幼生死亡率を数で補う戦略です。孵化した幼生は数週間プランクトンとして海中を漂ったのち、餌のイソギンチャクの近くに着底して稚ウミウシに変態します。寿命は約1年で、多くを繁殖に費やします。

近縁のアオリカ類と、遺伝子解析で分割された隠蔽種
近年の遺伝子解析で複数の隠蔽種に分割
近年の遺伝子解析では、これまで Aeolidia papillosa の1種としてまとめられていた集団が、少なくとも3〜4種の隠蔽種に分けられるべきだと報告されています。北大西洋東岸・西岸・北太平洋の集団はそれぞれ遺伝的に区別でき、正式に別種として再記載された種もあります。フィールドでの識別は難しく、分布と併せて判定するのが現状の運用です。
スペインショールなど他のアオリカ類
アオリカ下目にはミノを密生させた種が多く、代表的な近縁にはカリフォルニア沖のスペインショールウミウシ Flabellina iodinea や、日本近海のムカデミノウミウシ Pteraeolidia semperi などがあります。いずれもクレプトクニードを共有しますが、体色や餌のイソギンチャク・ヒドロ虫の違いで生活史が大きく分かれています。


関連




