マッコウクジラは体長16〜20m・体重40〜50トンにもなる歯クジラ最大の種です。四角い巨大な頭が体長の3分の1を占め、その内側には動物界で最大の脳(約8kg)が収まっています。四角い頭と、深海までの垂直な旅。この二つが本種を他のクジラと分けています。深海までまっすぐ潜ってダイオウイカを追い、水深1,000mは日常的、記録は2,000mを超えます。メルヴィルの小説『白鯨』のモデルとしても知られる名高い鯨で、腸内で作られる香料の原料「竜涎香(りゅうぜんこう)」も本種の副産物です。IUCN レッドリストでは危急種(VU・2019評価)に分類されています。
分類と学名
分類階層
- 界:動物界 Animalia
- 門:脊索動物門 Chordata
- 綱:哺乳綱 Mammalia
- 目:鯨偶蹄目 Cetartiodactyla
- 下目:ハクジラ下目 Odontoceti
- 科:マッコウクジラ科 Physeteridae
- 属:マッコウクジラ属 Physeter(1属1種)
- 種:マッコウクジラ Physeter macrocephalus
和名・英名
- 和名:マッコウクジラ/抹香鯨
- 英名:Sperm whale
別名と名前の由来
和名の「マッコウクジラ(抹香鯨)」は、腸内で作られる「竜涎香」の香りが仏事で使う抹香(まっこう)に似ていることに由来するとされます。英名の「Sperm whale」は、頭の中に大量に詰まっている白いワックス質を昔の捕鯨者が精液(sperm)と誤解したことに由来する古い呼び名です。この物質は実際には脳油(spermaceti、鯨蝋)で、精液とは無関係です。学名の Physeter macrocephalus は「大きな頭を持つ、水を吹く動物」の意味です。体長の3分の1を占める巨大な頭部と、頭上の噴気孔から左前方に潮を吹き上げる様子をそのまま表しています。1758年にリンネが記載しました。
大きさ・生息などの基本データ
| 大きさ | 雄 16〜20m/雌 11〜12m/体重 15〜50トン(歯クジラ最大) |
|---|---|
| 性的二型 | 雄が雌の1.5倍近く大きい(歯クジラで最大級の差) |
| 頭部 | 四角い頭が体長の1/3/内部に脳油(spermaceti)とジャンクの二層 |
| 脳 | 約8kg(動物界で最大/ヒトの約6倍) |
| 歯 | 下顎に円錐歯20〜26対(上顎の歯は退化) |
| 分布 | 全世界の海洋(極域を含む深海に接した海) |
| 食性 | ほぼイカ類(ダイオウイカ・ダイオウホウズキイカ・中層イカ) |
| 潜水 | 通常30〜45分/最大約120分・水深2,000m超 |
| 遊泳速度 | 巡航約7〜10km/h/全力遊泳で最大約35km/h |
| 寿命 | 約60〜70年(推定) |
| 世界個体数 | 約30〜36万頭(捕鯨前は約110万頭) |
| 保全状況 | IUCN:危急種(VU・2019評価)/CITES附属書I/IWC全面保護(1988年〜) |
歯クジラで最大・脳は動物界最大
頭は体長の1/3を占める
メロン器官「脳油ケース」
マッコウクジラの姿でもっとも特徴的なのが、四角く巨大な頭です。体長の3分の1を占め、20mの雄なら頭だけで6〜7mに達します。頭の内側には「ケース」と「ジャンク」と呼ばれる2つの脂肪組織があり、ケースには「脳油(spermaceti)」と呼ばれる液状のワックスが詰まっています。脳油は温度によって固さが変わり、体温を下げると固まって沈みやすくなる仕組みが知られています。この性質を利用して深海に急降下していると考えられています。
白鯨のモデル
この巨大な頭は捕鯨時代から人間を魅了してきました。1851年に発表されたハーマン・メルヴィルの小説『白鯨(モビー・ディック)』は、船を沈めた実在の巨大な白いマッコウクジラの逸話をもとに書かれた作品です。捕鯨船エセックス号が1820年に南太平洋でマッコウクジラの体当たりを受けて沈没した実話も、白鯨の下敷きになったとされます。頭部を武器として使い、船に体当たりして反撃した記録が複数残されており、本種の力の強さを示す実例として今も引用されます。
動物界最大の脳(約8kg)
ヒトの脳の約6倍
マッコウクジラの脳は約8kgで、動物界で最大です。ヒトの脳の約6倍にあたり、これまで知られたあらゆる動物のなかで最も重い脳を持っています。体長に対する頭の大きさが極端に大きいため、頭の内部にこれほどの脳が収まる余裕があるのが本種の解剖学的な特徴です。
記憶と社会に関わる領域が発達
体格に対する脳の相対的な大きさ(脳化指数)はヒトほど高くありませんが、絶対的な質量は圧倒的です。記憶や社会的な認知に関わる領域が特に発達していると考えられています。60〜70年におよぶ長寿と、母系のユニットを軸にした複雑な社会構造。この二つと結びつけて、巨大な脳の役割が研究されている段階です。
深海への潜水──2,000m・120分

世界最深級のダイビング
メスは1,000m級を毎日
マッコウクジラは、鯨類のなかでもっとも深く潜る種のひとつです。通常の潜水でも水深400〜1,000mに達し、記録上は水深2,000mを超える潜水も観測されています。1回の潜水時間は30〜45分が普通で、最長では2時間近く水中にとどまった記録もあります。メスと子の群れでも1,000m級の潜水を1日に何度も繰り返しており、深海への行き来が生活の中心となっています。海の底近くまで潜って餌のイカを探し、大きく息を吸うために水面に戻る──これを一生涯くり返します。深海と水面のあいだの、垂直の往復。それが本種の生活の中心です。
肺をたたんで沈む
これほど深く潜れるのは、体のつくりが深海に適応しているからです。潜る前に肺の空気を大きく吸い込むのではなく、逆に呼吸をとめて肺を小さくたたみます。空気を体内に残さないことで浮力を抑え、圧力による窒素中毒(潜水病)を防いでいます。血液と筋肉に酸素をたっぷり蓄えるためのミオグロビン濃度が非常に高く、その量はヒトの10倍以上とされます。前述の脳油も温度で密度が変わり、体の浮き沈みを助ける「浮力調整装置」として働いていると考えられています。
主食はイカ──ダイオウイカを追う
マッコウクジラの主食は中層〜深海のイカ類で、1日にオキアミではなくイカを主に食べる珍しい大型鯨類です。もっとも有名な獲物がダイオウイカで、体表に残る円形の吸盤痕は、深海の巨大イカとの遭遇の実在を示す証拠として長らく注目されてきました。ダイオウイカのくちばしは消化されずに胃内に残り、座礁個体の胃からは大量のくちばしが見つかることも珍しくありません。ダイオウホウズキイカや中層性の小型イカも食べ、生息地や季節によって獲物の種類は変わります。魚を食べることもありますが、食事全体の中では小さな割合です。
音でイカを追う──動物界最大のクリック音

暗黒の深海で獲物を見つけるために、マッコウクジラはエコロケーション(反響定位)を使います。頭部の脳油ケースから発する「クリック音」と呼ばれる鋭い音は、動物が発する音のなかでもっとも大きいとされます。水中で最大230デシベル前後に達し、100kmほど先まで届くと測定されています。獲物の位置を正確に把握するだけでなく、コミュニケーションにも使われ、群れの仲間どうしがクリック音の並び(コーダ)で会話することが分かってきました。同じ海域の群れは似たコーダを共有し、地域による「方言」のような文化が存在するとされます。
家族と旅の社会──メスと子は「ユニット」

マッコウクジラの社会は雄と雌で大きく異なります。雌と子は10〜20頭ほどの安定した家族単位(ユニット)で暮らし、生涯を通じて熱帯・亜熱帯の海域にとどまる傾向があります。子は母親だけでなく、群れの他の雌からも授乳を受けることが観察されており、共同で子育てする社会性の高さが知られています。一方、雄は10歳前後で家族群を離れ、単独か若い雄同士の緩い群れで極海を回遊するようになります。繁殖期になると再び熱帯の雌の群れに戻り、雌をめぐって競い合います。この雄と雌の暮らし方の違いが、体格の性的二型(雄が1.5倍近く大きい)を生み出したと考えられています。
白鯨・竜涎香・捕鯨史

脳油目当てに追われた200年
19世紀アメリカ捕鯨の主役
マッコウクジラは18〜20世紀にかけて、鯨油の中でもとくに良質な脳油を目当てに大量に捕獲されました。脳油は精密機械の潤滑油や高級ろうそくの原料として重宝され、19世紀のアメリカ捕鯨は主に本種を狙ったものです。1846年ごろの世界の捕鯨船の大半が本種を追い、太平洋の日本近海まで捕鯨船が押し寄せました。ペリー来航(1853年)の背景に薪水補給地の確保という捕鯨事情があったこともよく知られています。
IWCの1988年全面保護
19〜20世紀を通じて100万頭を超える個体が失われたと推定されています。国際捕鯨委員会(IWC)は1988年に本種の商業捕鯨を全面禁止しました。現在の世界個体数は約30〜36万頭とされ、捕鯨前の3分の1程度まで回復した状態です。回復のペースはザトウクジラほど早くなく、雄の成獣が極端に減った時期の影響が今も残っているとされます。
竜涎香(りゅうぜんこう・アンバーグリス)
マッコウクジラは唯一「竜涎香(アンバーグリス)」を作る動物として知られます。ダイオウイカの硬いくちばしを飲み込んだあと、腸内でくちばしを包み込むように蝋状の物質が形成されます。時にこれが排泄されて海を漂い、長い年月を経て酸化することで独特の香りを持つ塊になります。古代から高級香水の香りを長持ちさせる「保留剤」として珍重され、現在でも1gで数万円の値がつくこともある高価な天然素材です。海岸で拾われた塊が数千万円の値で取引された例も報じられています。ただし現在は合成の代替品が広く使われ、天然の竜涎香の商用利用は多くの国で制限されています。
保全と現在の脅威
IUCNレッドリストではマッコウクジラを危急種(VU・2019評価)に分類しています。CITES附属書I・CMS附属書I・IIにも掲載され、国際的な保全対象です。日本近海では小笠原諸島や高知県沖・奄美大島・熊野灘などで観察され、南西諸島周辺はホエールウォッチングでも本種に出会える海域として知られています。現在の主な脅威は、大型船舶との衝突・漁具混獲・プラスチックごみの誤飲・海洋騒音などです。近年は座礁個体の胃内から大量のプラスチックが発見される事例が続き、深海採餌に特化した本種にとって特有の脅威となっている段階です。
関連ページ


参考
- Wikipedia (英語版)「Sperm whale」(分類・形態・生態)
- IUCN Red List: Physeter macrocephalus(VU・2019評価)
- NOAA Fisheries「Sperm Whale」(分布・脅威・保護状況)
- Whitehead, H. (2003). Sperm Whales: Social Evolution in the Ocean. University of Chicago Press(マッコウクジラの社会研究の総説)
- Rendell, L. & Whitehead, H. (2003). “Vocal clans in sperm whales.” Proceedings of the Royal Society B 270: 225-231(コーダと方言集団)
画像出典
- Gabriel Barathieu, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons(アイキャッチ・母と子)
- Laura (Laney) White (USGS), Public domain, via Wikimedia Commons(上空から見た潜水)
- Marion & Christoph Aistleitner, Public domain, via Wikimedia Commons(潮吹き)
- Gabriel Barathieu, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons(母子の群れ)
- Moheen Reeyad, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons(全身骨格)


