カスピトラ

カスピトラ Panthera tigris virgata 哺乳類

カスピトラは、かつてカスピ海沿岸のカフカスからアラル海周辺・イラン・アフガニスタン・中国新疆までの中央アジア一帯に分布していたトラの亜種です。体重200kgを超え、狭く数の多い縞と冬の長い頬毛を持つ独特の風貌で知られました。19世紀後半から20世紀にかけての毛皮・骨の需要と生息地縮小により1970年代までにほぼ全域で消滅し、1998年のタジキスタンでの目撃が最後の確認記録となっています。2009年の分子系統解析によって現存のアムールトラと遺伝的にほぼ同一であることが判明し、アムールトラを中央アジアへ導入して「カスピトラの生態的地位を復元する」計画も進められています。

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  1. 分類と学名
    1. 分類階層
    2. 和名・英名
    3. 別名・学名の由来
      1. virgata──ラテン語「縞」
      2. 「裏海虎」──日本語の翻訳語
  2. 大きさ・分布などの基本データ
  3. 見た目の特徴
    1. 濃く数の多い縞
      1. 橙色に代赭色の背中
      2. 腰に平行に走る2本の縞
    2. 頬と下腹の長い冬毛
      1. 厳寒対応の長く密な冬毛
      2. 夏毛は短く滑らか──季節差の大きい亜種
    3. 現生アムールトラとの外見的な近さ
      1. 頬の長毛・厚い冬毛・大きな体格
      2. 標本を並べても見分けが難しい
  4. 中央アジアの生態
    1. バクトリアシカを追う長距離移動
      1. 河谷林と葦原の狩場
      2. サイガや野生馬まで狩る頂点捕食者
    2. 12世紀まではウクライナ左岸にも
      1. オグネフが記録した中世の広い分布
      2. 農耕開拓に先んじて西の分布から失われた
  5. 20世紀の広域絶滅の経緯
    1. 毛皮と骨の需要
      1. 漢方薬向けの骨市場
      2. ロシア=ペルシャ間の毛皮貿易
    2. 各国別の最終記録
      1. コーカサス1922・タリム川1920年代
      2. イラン1953・中国1960年代・アムダリヤ1968
    3. タジキスタン1998年最後の目撃
      1. トルコ南東部で1980年代まで生存の可能性
      2. パンジ川流域1998年の目撃を最後に
  6. 保護は間に合わなかった
    1. 1938年ティグロヴァヤ・バルカ保護区
      1. タジキスタンの「トラの谷」自然保護区
      2. 1958年ソ連最後の目撃も保護区内
    2. 1947年ソ連・1957年イランの保護法制
      1. ソ連・イランでの狩猟禁止
      2. 1970年代の調査でも生存確認できず
  7. 遺伝的にアムールトラと同一
    1. 2009年PLoS研究とアムールトラとの近縁性
      1. Driscollら 博物館標本DNAの解析
      2. 両者のDNAはわずか1塩基違い
    2. 「絶滅していない」という新たな見解
      1. 遺伝子はアムールトラとして生き残る
      2. 2017年IUCN分類での地域集団扱い
  8. 復元計画──アムダリヤ川へ帰る
    1. WWFの実現可能性調査
      1. アムダリヤ川デルタへの再導入案
      2. 必要条件の細かい評価
    2. カザフスタンのイリ・バルハシ保護区
      1. 2017年 Ile-Balkhash自然保護区の設立
      2. 近縁の生きた集団を移動させる復元
  9. 日本文化とカスピトラ
    1. 児童書と図鑑での紹介
      1. 「人間が滅ぼした動物」の代表として
      2. アゼルバイジャンの記念切手と別称ペルシャトラ
  10. 関連ページ
  11. 画像出典
  12. 参考

分類と学名

分類階層

  • 界:動物界 Animalia
  • 門:脊索動物門 Chordata
  • 綱:哺乳綱 Mammalia
  • 目:食肉目 Carnivora
  • 科:ネコ科 Felidae
  • 属:ヒョウ属 Panthera
  • 種:トラ Panthera tigris
  • 亜種:カスピトラ Panthera tigris virgata(絶滅)

和名・英名

  • 和名:カスピトラ(裏海虎)/別名:ペルシャトラ
  • 英名:Caspian tiger, Hyrcanian tiger, Mazandaran tiger, Turanian tiger(トゥラーントラ)

別名・学名の由来

virgata──ラテン語「縞」

亜種名の virgata はラテン語で「縞のある」を意味し、他のトラ亜種と比べて縞の数が多く狭いというカスピトラ特有の毛皮の特徴に由来します。命名したのはドイツの動物学者ヨハン・カール・イリガーで、1815年に発表されました。分布域が広範囲だったため、地域ごとに異なる呼称が並立しました。Caspian(カスピ海)・Hyrcanian(ヒルカニア=カスピ海南岸の古名)・Mazandaran(イラン北部の州名)・Turanian(トゥラーン=中央アジアの古名)と、それぞれの土地名にちなむ4つの英名が現在も併用されています。

「裏海虎」──日本語の翻訳語

和名の「カスピトラ」はそのままCaspian tigerを音写したものですが、漢字表記の「裏海虎」も戦前の博物誌でよく用いられていました。「裏海」はカスピ海の古い日本語表記で、江戸期の学者が中国語の呼称を輸入したものです。ペルシャトラという別称もあり、これはイランでの分布を強調した呼び方として20世紀の児童書に多く見られます。

大きさ・分布などの基本データ

大きさ雄 全長 約325cm・体重 約200kg/雌 全長 約260cm(頭骨長 雄320〜360mm・雌約280mm)
分布(かつて)カフカス地方(トビリシ周辺)・カスピ海沿岸・イラン北部・トルクメニスタン・ウズベキスタン・カザフスタン・アフガニスタン北部・中国新疆西部・トルコ東部の一部
生息環境河谷林(トゥガイ)・葦原・山岳森林・低地の草原
寿命他のトラ亜種と同様、野生下10〜15年程度と推定
保全状況IUCN: EX(絶滅・1970年代)
トラ亜種の歴史的分布図(カスピトラを含む)
Driscoll CA et al. (PLoS 2009), CC BY 2.5, via Wikimedia Commons

見た目の特徴

カスピトラ Panthera tigris virgata の生前写真
Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

濃く数の多い縞

橙色に代赭色の背中

体色は橙色を帯びた暗い代赭(たいしゃ)色で、背面は黒みがかり、腹側は白色でした。縞は他のトラ亜種と比べて明らかに狭く数が多いのが特徴で、側面・腹・後肢の外側では黒よりも茶色寄りの縞になっていました。

腰に平行に走る2本の縞

縞と縞の間隔が狭く、互いに接近して並んでいた点も他亜種との違いです。腰の正中線に沿って前後に走る2本の縞があり、この配列がカスピトラの標本を他亜種と見分ける手がかりの一つとされていました。

頬と下腹の長い冬毛

厳寒対応の長く密な冬毛

中央アジアの厳しい冬に適応して、カスピトラは他の熱帯トラよりもかなり長く密な冬毛を発達させました。特に頬と下腹部の毛は立派な房になり、顔の下半分が広く見える独特のシルエットを生みました。耳は他のトラより小さめで、これも寒冷地適応の一つと考えられています。

夏毛は短く滑らか──季節差の大きい亜種

夏毛は短く滑らかで、季節による見た目の変化が大きい亜種でもありました。冬と夏で別種のような姿になるこの二相性は、中央アジアの大陸性気候への強い適応を示しています。

現生アムールトラとの外見的な近さ

頬の長毛・厚い冬毛・大きな体格

後述する分子系統解析でも示されたとおり、カスピトラは現生のアムールトラ(シベリアトラ)と外見的に非常に近い姿を持っていました。頬の長毛・厚い冬毛・大きな体格などはアムールトラと共通しており、遺伝的にほぼ同一であることの傍証にもなっています。

標本を並べても見分けが難しい

標本を比較した研究者たちは、両者を並べたときに識別するのは容易ではないと記録しています。外見の一致は、後年の遺伝的同一性の発見を先取りしていたともいえます。

中央アジアの生態

イラン北部で撮影されたカスピトラ
Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

バクトリアシカを追う長距離移動

河谷林と葦原の狩場

カスピトラは獲物となるバクトリアシカやアカシカなどを追って、河谷林や葦原を長距離にわたって移動しました。中央アジアの多くの群れでは、バクトリアシカとノロジカが主な獲物だったと記録されています。トラ類の中では珍しく、水辺の葦原に生息するイノシシ類も重要な獲物だったといいます。

サイガや野生馬まで狩る頂点捕食者

イランでは季節によってジャッカルやジャングルキャット・小型哺乳類も食べていた記録が残ります。アムダリヤ川低地ではサイガ・野生馬・野生のロバ・野生羊まで狩る大型の頂点捕食者でした。獲物の幅の広さは、中央アジアの多様な生態系にトラが完全に組み込まれていた証拠といえます。

12世紀まではウクライナ左岸にも

オグネフが記録した中世の広い分布

近世以前のカスピトラの分布は、現在想像されるより広がりを持っていました。ロシアの動物学者オグネフによれば、12世紀ごろにはウクライナの草原地帯、特に左岸ウクライナにまで生息していた記録が残されています。この地域には森林と草原が入り混じる回廊があり、トラが西方への進出ルートとして利用したと考えられています。

農耕開拓に先んじて西の分布から失われた

中世以降の農耕開拓による森林の後退が、こうした西の分布を先に切り詰めていきました。20世紀の絶滅の何百年も前から、カスピトラの生息域は東へ東へと押し戻され続けていたことになります。

20世紀の広域絶滅の経緯

カスピトラの生前写真(1900年前後)
Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

毛皮と骨の需要

漢方薬向けの骨市場

他のトラ亜種と同じく、カスピトラも毛皮や骨を目的に大量に狩られました。骨は中国の伝統薬(漢方薬)の原料として東方の市場に売られ、成分上の薬効は認められていないにもかかわらず高値で取引されていたと知られています。

ロシア=ペルシャ間の毛皮貿易

19世紀後半のロシア帝国とペルシャ(現イラン)の間では毛皮貿易が盛んで、猟師にとってカスピトラ1頭は数か月分の現金収入をもたらす獲物だったといいます。害獣として駆除される場合でも、皮と骨は市場に流れ続けました。

各国別の最終記録

コーカサス1922・タリム川1920年代

もっとも早く姿を消したのは西の縁でした。イラクではモスル近郊で1887年に殺害された1頭が唯一の記録で、19世紀末には同地から消えていたことが分かります。コーカサス地方ではトビリシ近郊で1922年に殺された1頭が最後の記録となり、以後この地域では確実な生息の証拠は途絶えました。中国側では1920年代に新疆のタリム川流域から姿を消しています。

イラン1953・中国1960年代・アムダリヤ1968

その後も消滅は東へ広がっていきます。トルクメニスタンではコペトダグ山脈のSumbar River渓谷で1954年1月に殺害記録が残り、イランではゴレスターン州で1953年に最後の1頭が射殺されました(その後1958年に目撃記録あり)。中国天山山脈西部のマナシ川流域からは1960年代に消滅、アムダリヤ川下流域アラル海近郊のヌクスでの1968年の目撃を最後に、この一帯からも姿を消します。1970年代初頭にはウズベキスタン・アフガニスタン国境地帯からも消えていきました。

タジキスタン1998年最後の目撃

トルコ南東部で1980年代まで生存の可能性

公式にはカスピトラは1970年代までに絶滅したとされますが、目撃報告は散発的に続きました。トルコ南東部では1980年代半ばまで毎年1〜8頭が射殺されていたという報告もあり、1990年代初頭までは同地で生存していた可能性が指摘されています。

パンジ川流域1998年の目撃を最後に

もっとも新しい確度の高い目撃記録は、タジキスタンとアフガニスタンの国境を流れるパンジ川流域で1998年に得られたものです。この報告以降、20年以上にわたって確認された生きたカスピトラの証拠は存在していません。

保護は間に合わなかった

1938年ティグロヴァヤ・バルカ保護区

タジキスタンの「トラの谷」自然保護区

保護の動きが完全に無かったわけではありません。1938年、ソ連はタジキスタンにティグロヴァヤ・バルカ(「トラの谷」の意)自然保護区を設置しました。ヴァフシュ川下流とパンジ川・アフガニスタン国境のKofarnihon川に囲まれたこの地域は、ソ連領内のカスピトラにとって最後の砦となります。

1958年ソ連最後の目撃も保護区内

1958年に目撃されたソ連最後のカスピトラも、この保護区内で確認されたものでした。しかし個体数が回復するには保護開始が遅すぎ、保護区内でもトラは消えていきました。

1947年ソ連・1957年イランの保護法制

ソ連・イランでの狩猟禁止

ソ連では1947年以降、イランでは1957年以降にカスピトラの狩猟が法律で禁止されました。イランでは射殺した場合に重い罰金を科す厳しい規制でしたが、それでも密猟と生息地縮小の圧力は止まりませんでした。

1970年代の調査でも生存確認できず

1970年代初頭、イラン環境省の依頼で生物学者がカスピ海沿岸の森林地帯を調査しましたが、生存の証拠は見つかりませんでした。フクロオオカミやリョコウバトと同じく、保護法制の成立が絶滅の直前でしかなかった典型的な事例の一つに数えられます。

遺伝的にアムールトラと同一

トラの分子系統関係(Driscoll et al. 2009)
Driscoll CA et al. (PLoS 2009), CC BY 2.5, via Wikimedia Commons

2009年PLoS研究とアムールトラとの近縁性

Driscollら 博物館標本DNAの解析

2009年、米国立衛生研究所のDriscollらの研究チームが博物館標本のミトコンドリアDNAを解析した結果、カスピトラと現生のアムールトラ(シベリアトラ)が遺伝的にほぼ同一であることが判明しました。

両者のDNAはわずか1塩基違い

両者のミトコンドリアDNAは、わずか1塩基しか違わないというきわめて近い関係で、地理的に離れていても分子系統上は同じ集団の東西端に位置していたことが示されました。この結果はカスピトラの分類学的位置づけを大きく見直す契機となりました。

「絶滅していない」という新たな見解

遺伝子はアムールトラとして生き残る

2009年の結果を受けて、一部の研究者は「カスピトラは厳密には絶滅していない」と主張するようになりました。アムールトラがカスピトラの遺伝的なほぼ同一存在であるならば、カスピトラの遺伝子は今もアムールトラとして生き残っていることになります。ただしアムールトラ自体も野生個体数は数百頭規模にとどまり、絶滅危惧IB類(EN)に指定されています。

2017年IUCN分類での地域集団扱い

分類学的にも2017年のIUCN分類では大陸トラは Panthera tigris tigris の1亜種に統合され、カスピトラは独立亜種としてではなく地域集団として扱われる動きも出ています。「絶滅集団」として歴史記録に残しつつ、分子系統上はアムールトラと連続する集団と位置づけるのが現代の理解です。

復元計画──アムダリヤ川へ帰る

WWFの実現可能性調査

アムダリヤ川デルタへの再導入案

2000年代後半、世界自然保護基金(WWF)ロシアはカスピトラのかつての生息地であるアムダリヤ川デルタ(ウズベキスタン・カザフスタン境界)にトラを再導入する実現可能性調査を行いました。2009年に発表された報告書「Pre-Feasibility Study on the Possible Restoration of the Caspian Tiger in the Amu Darya Delta」では、遺伝的に近縁のアムールトラを導入する計画が具体的に検討されました。

必要条件の細かい評価

生息地の広さ・獲物となる有蹄類の密度・水源の確保など、必要条件が細かく評価されています。1回導入して終わるものではなく、獲物集団を先に増やす下地作りが数十年単位で必要になる計画です。

カザフスタンのイリ・バルハシ保護区

2017年 Ile-Balkhash自然保護区の設立

2017年、カザフスタン政府とWWFはイリ川流域・バルハシ湖南岸に「Ile-Balkhash自然保護区」を設立し、アムールトラの導入によるカスピトラの生態的地位の復元に踏み出しました。数十年かけて獲物となるバクトリアシカや野生ロバの個体群を先に増やし、それを狩れるトラを段階的に放獣する長期計画です。

近縁の生きた集団を移動させる復元

生きた復元個体をゲノム編集で作るタスマニアタイガーや、選択的育種で外見だけを再現するクアッガと異なり、カスピトラは「近縁の生きた集団を移動させる」だけで生態機能を戻せる可能性のある珍しい事例となっています。復元の方法論として最も現実味のある亜種の一つです。

日本文化とカスピトラ

アゼルバイジャン1994年発行のカスピトラ記念切手(雌と仔)
Post of Azerbaijan, Public domain, via Wikimedia Commons

児童書と図鑑での紹介

「人間が滅ぼした動物」の代表として

日本ではカスピトラは、リョコウバト・ドードー・フクロオオカミ・クアッガと並ぶ「人間が滅ぼした動物」の代表として、児童書や図鑑で紹介されてきました。今泉忠明監修の『動物百科 野生ネコの百科』や絶滅動物図鑑シリーズなどが主要な情報源となっており、環境教育の題材として学校の副読本でも扱われています。

アゼルバイジャンの記念切手と別称ペルシャトラ

アゼルバイジャンではカスピトラを描いた記念切手が1994年・1995年・1997年に複数種類発行され、絶滅した国家的シンボルとして今も追悼の意が込められています。日本ではペルシャトラの別称でも紹介されることが多く、アジア最大級の陸棲肉食獣の一つとして長く扱われてきました。

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