キタナキウサギは、シベリアから北海道の高山にかけて岩塊地(ガレ場)に住む小さな「鳴くウサギ」です。日本亜種はエゾナキウサギと呼ばれ、大雪山系や日高山脈など標高800m以上の岩場に限られて生息する氷河期遺存種として知られます。氷期以降、日本では北海道の高山にだけ残った小型の在来ウサギで、風穴の吹き出す冷気を頼りに現在まで生き延びてきた種です。
分類と学名
分類階層
- 界:動物界 Animalia
- 門:脊索動物門 Chordata
- 綱:哺乳綱 Mammalia
- 目:ウサギ目 Lagomorpha
- 科:ナキウサギ科 Ochotonidae
- 属:ナキウサギ属 Ochotona
- 種:キタナキウサギ Ochotona hyperborea
- 亜種:エゾナキウサギ Ochotona hyperborea yesoensis(北海道)
和名・英名
- 和名:キタナキウサギ(北鳴兎)/日本亜種:エゾナキウサギ
- 英名:Northern pika(キタナキウサギ)
別名・学名の由来
種小名 hyperborea はギリシャ神話の「北風の彼方に住む民」を意味するハイパーボレアに由来し、北方に住む鳴くウサギを端的に表しています。「ナキウサギ」の和名は、警戒時に発する高い声にちなむもので、ウサギ科の他のグループ(ノウサギ属・アナウサギ属)にはほとんど見られない特徴です。北海道の亜種名 yesoensis は「蝦夷(えぞ)の」の意で、和名エゾナキウサギがそのまま学名にも反映されています。
大きさ・分布などの基本データ
| 大きさ | 体長 10〜20cm、体重 60〜150g(手のひらサイズ) |
|---|---|
| 耳の長さ | 約2cm(ノウサギ属の1/5) |
| 尾 | 1cm程度で体毛にほぼ隠れる(外から見えない) |
| 体色 | 夏毛は赤褐色、冬毛は灰褐色〜暗褐色。年2回換毛 |
| 分布 | シベリア・モンゴル北部・中国北東部・北朝鮮北部・北海道 |
| 日本の亜種 | エゾナキウサギ(北海道中央部・北東部の標高800m以上の岩塊地) |
| 生息環境 | ガレ場(岩塊地)・崖錐・風穴周辺の冷気地帯 |
| 食性 | 植物食(葉・茎・花・実・地衣類)/冬眠せず干し草を貯蔵 |
| 活動時間 | 日中活動・薄暮性(日没後がより活発) |
| 繁殖 | 年1回・1回に1〜5頭 |
| 寿命 | 野生でおよそ5年 |
| 保全状況 | IUCN 軽度懸念(LC)/環境省RL 準絶滅危惧(NT・2012年) |
姿と体色 ── 小さく耳の短い高山ウサギ

耳が短く尾がほとんど見えない
手のひらに収まる体

体重は60〜150g、体長10〜20cmと、日本のウサギ類のなかで最小の部類にあたります。ノウサギ属(1〜4kg級)と比べると桁違いに小さく、成体でも手のひらに収まるほどのサイズです。丸っこい体と短い耳、外から見えないほど短い尾が、いわゆる「ウサギらしさ」からは離れた独特のシルエットを作っています。
寒冷地仕様の短い耳
耳の長さは約2cm、ノウサギ属(耳長10〜15cm)の5分の1程度です。寒冷地の哺乳類にみられる「アレンの法則」(体の突出部が短くなる)に沿った特徴で、高山の氷点下環境で熱を逃がさない体つきです。密な冬毛と合わせ、北海道の冬山でも巣穴の外に出て活動できる耐寒性を備えています。
夏毛と冬毛
夏毛は赤褐色寄り、冬毛は灰褐色から暗褐色へと変わり、年に2回換毛する種です。冬毛の色はノウサギ類のような真っ白ではなく、岩塊地の暗い色調に溶け込む形の保護色。雪の少ない岩隙間で暮らすため白化する必要がなく、岩肌に紛れる色を選んできたと考えられます。
「鳴くウサギ」── ピッと響く警戒声
ナキウサギの名前の通り、本種は明瞭な音声コミュニケーションを持つ数少ないウサギです。雄は「キィッ」「キチィ」、雌は「ピュー」「ピィーッ」といった短い高音を発し、繁殖期には複数の音を連続的に繰り出します。声は岩壁に反響して山中によく通り、姿を見つけるより先に鳴き声で存在を知られることも多い種です。警戒時の一声で仲間に危険を知らせるほか、縄張り主張の合図としても使われるとされます。
ガレ場と風穴 ── 岩隙間の暮らし

崖錐・岩塊地の隙間を巣にする
生活の場は森林限界を超えた高山の「ガレ場」(崖錐や岩塊斜面)で、大小の岩石が積み重なった隙間に巣穴を持ちます。地面を掘るのではなく既存の岩隙間を利用する形で、外敵からの隠れ場所と越冬のシェルターを兼ねる構造です。
風穴の冷気地帯に集まる
地下氷が作る局所の冷気
本種の生息を成り立たせているのが、岩塊斜面から吹き出す「風穴(ふうけつ)」の冷気です。地下の氷や積雪が夏でも冷気を吹き出し、周囲より年平均気温が数℃低い局所環境を作り出しています。高温に極めて弱い本種は、この冷気地帯を頼りに標高800mから山頂近くまで分布を保ってきました。
標高400m級で確認された例
低山にも風穴があれば標高400m級で確認された記録もあり、生息高度は緯度と冷気環境の組み合わせで決まる傾向にあります。標高そのものより岩塊地と風穴の有無が生息可否を分けるため、低山でも条件がそろえば孤立した小集団が見つかる例が知られています。
干し草づくり ── 冬に備える食糧貯蔵

夏から秋にかけての貯蔵行動
本種は冬眠しません。積雪で覆われる北海道の高山で越冬するために、夏から秋にかけて葉・茎・花・実を集め、岩の隙間に積み上げて冬の保存食を作る「haying(ヘイング/干し草づくり)」という行動が知られています。植物をくわえて岩を渡る姿は貯蔵期のよく見られる光景で、口いっぱいに草を運ぶ個体が確認されるのは主に7〜9月とされます。
複数種の草を選ぶ
集める植物は50種を超えるとの調査もあり、単一の草だけを積み上げるわけではありません。乾燥しにくい種類と乾燥しやすい種類、腐りにくい種類を混ぜて積むことで、貯蔵中の栄養損失を最小化する工夫も報告されています。冬芽・地衣類・コケも冬期のわずかな採食対象で、雪の中を移動する短距離ネットワークで冬を生き延びます。
繁殖と天敵
年1回の繁殖
繁殖期は春から夏にかけての年1回で、1回の出産で1〜5頭を産みます。ノウサギ属のように年数回産むわけではなく、繁殖速度は極めて遅い部類です。子は数週間で自立し、翌春には繁殖に加わる個体も出ます。
猛禽と食肉目
主要天敵はイヌワシ・クマタカなどの大型猛禽類、キタキツネ・エゾクロテンなどの中型食肉目。岩隙間に潜り込むことで直接的な捕食は避けられますが、ガレ場から出た瞬間を狙われる場面が多いとされます。冬期は積雪で外敵が減る一方、干し草の貯蔵量が生存を左右します。
氷河期の遺存種 ── なぜ北海道に残ったか

本種は最終氷期にユーラシア大陸北部から南下し、当時陸続きだった北海道に分布を広げた氷河期の遺存種と考えられています。氷期が終わって温暖化すると生息域は北方と高山に押し戻され、日本では大雪山系・日高山脈・夕張山地・北見山地といった限られた高山だけに孤立しました。数万年をかけて風穴のある岩塊地だけが最後の避難地となり、現在の分布は氷期の分布痕跡をそのまま残した形にあたります。
温暖化と保全 ── 生息地は縮んでいる
気温上昇が直接の脅威
25℃が生存の壁
本種は気温が25℃を超える環境に数時間さらされるだけで生存に支障が出るとされ、地球温暖化の指標種として注目される種です。厚い冬毛と高い代謝が寒冷地では有利に働く一方、夏の高温は逃げ場のない致命的な要因となります。
山頂に追い詰められる集団
生息地の岩塊地は逃げ場のない孤立環境のため、気温上昇にともなって下端の集団から順に消失していく現象が観察されています。低地の集団が失われれば分布そのものが縮み、同時に集団間の遺伝的つながりも切れる二重の圧力にさらされる構造にあたります。
生息地の縮小と保全対策
環境省の調査では1994年から1996年にかけての一時期に生息確認地が大きく減少した記録があり、現状は準絶滅危惧(NT)に指定されています。近年はエゾシカの分布拡大で高山植物の食害が進み、干し草の材料となる草本の減少も懸念されています。大雪山国立公園では登山道の管理と個体群モニタリングが継続され、風穴斜面への立入を制限する自主ルールも整備されつつあります。
ピカチュウのモデル説 ── 事実と俗説
丸い体と短い耳、無い尾、素早い動きから「ピカチュウのモデルではないか」とインターネット上で頻繁に話題にされる種です。ただし公式説明でピカチュウの名前は「ピカピカ光る」と鳴き声の「チュウ」に由来するとされ、モデル動物はリス系統が挙げられているため、ナキウサギをモデルとする裏付けは公式には確認されていません。見た目の類似は偶然の一致で、実際にはウサギ目とネズミ目のキャラクター設計は別系統です。ただし二次的な連想として本種の人気を押し上げる要因の一つになっているとみられます。
観察できる場所 ── 大雪山と日高の岩塊地

野生での確認例は大雪山国立公園の黒岳・赤岳・然別湖周辺、日高山脈のトムラウシ周辺などの高山岩塊地が中心です。姿より先に鳴き声で存在が知られる場所が多く、目撃報告のピークは干し草づくりが活発になる7〜9月に集中します。動物園での飼育はほぼ行われておらず、旭山動物園・円山動物園でも常設展示はありません。現地の岩塊地を訪れずに姿を目にする機会が極めて少ない、生息地依存の強い種にあたります。
関連ページ


参考
- Wikipedia日本語版「エゾナキウサギ」(分類・生息地・生態・保全)
- IUCN Red List: Ochotona hyperborea(LC評価・分布)
- 環境省レッドリスト(哺乳類・準絶滅危惧の指定根拠)
- 川道武男(1985)『ナキウサギの生活史と鳴き声』北海道大学出版会(鳴き声のカテゴリと繁殖行動)
画像出典
- Юрий Емельянов, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
- ほくなん, Public domain, via Wikimedia Commons
- Михаил Голомысов, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons
- ほくなん, Public domain, via Wikimedia Commons
- Анна Васильченко, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons
- Chermundy, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
- ほくなん, Public domain, via Wikimedia Commons


