テングザル

テングザル・Labuk Bayのオス個体 哺乳類

テングザルは、東南アジアのボルネオ島にのみ分布する体重10〜24kgほどの大型のオナガザル科霊長類です。学名は Nasalis larvatus。哺乳綱サル目オナガザル科テングザル属に分類され、オスの成獣に見られる巨大な垂れ下がった鼻(体長比で最大級のサルの鼻)が最大の特徴となっています。マレー語では「オランダ人(orang belanda)」と呼ばれ、その大きな鼻がヨーロッパ植民地時代のオランダ人を連想させることに由来する現地名を持ちます。

本種はボルネオ島のマングローブ林・河川林・湿地林に特有の霊長類で、大型サルとしては珍しく水中を泳げる能力を持つことでも知られています。指の間には水掻きがあり、川を渡って餌場や休息場所を移動する行動が観察されています。近年はパーム油プランテーション拡大や森林伐採で生息地が急速に失われ、IUCNレッドリストでは絶滅危惧IB類(EN)に指定される保全上の危機に直面しています。「巨鼻の意味」「泳げる霊長類」「ボルネオ固有」など、独特の特徴が多い本種の魅力を多角的に紹介します。

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分類と学名

分類階層

  • 界:動物界 Animalia
  • 門:脊索動物門 Chordata
  • 綱:哺乳綱 Mammalia
  • 目:サル目 Primates(霊長目)
  • 亜目:直鼻猿亜目 Haplorhini
  • 科:オナガザル科 Cercopithecidae
  • 亜科:コロブス亜科 Colobinae(葉食性のサルグループ)
  • 属:テングザル属 Nasalis
  • 種:テングザル Nasalis larvatus

和名・英名・別名

  • 和名:テングザル(天狗猿)
  • 英名:Proboscis Monkey(鼻の長いサル)/Long-nosed Monkey
  • マレー語名:Bekantan/Orang Belanda(オランダ人の意味)
  • インドネシア語名:Bekantan/Kera Belanda

名前の由来

和名は日本の妖怪から

  • 和名「テングザル」:日本の伝統的な妖怪「天狗(てんぐ)」に由来する和名です。天狗の代表的な特徴である「長い鼻」がオスの巨大な鼻を連想させることに由来します。日本語圏で最も分かりやすい命名で、日本人には一度聞くと忘れられない名前として定着しています。
  • 属名 Nasalis:ラテン語で「鼻の」を意味する形容詞。本種の顕著な鼻の特徴を直接反映した属名です。
  • 種小名 larvatus:ラテン語で「仮面をつけた」の意味。オスの垂れ下がった鼻と表情のある顔がまるで仮面のように見えることに由来する種名とされます。
  • 英名「Proboscis Monkey」:「Proboscis」は「長く突き出た鼻」の意味で、ゾウの鼻や昆虫の口吻にも用いる語です。本種の巨鼻を表す英名として広く定着しています。
  • マレー語「Orang Belanda」:「オランダ人」の意味。ボルネオを含む東南アジアを植民地としていたオランダ人の大きな鼻と赤茶けた肌の色が本種を連想させたことから、地元民が付けた愛称的な名前とされます。

大きさ・生息などの基本データ

大きさオス:体長66〜76cm・体重16〜24kg/メス:体長53〜62cm・体重7〜12kg/尾長:55〜75cm/オスがメスの約2倍大型(顕著な性的二型)
体色背面:赤褐色〜オレンジ色/腹部:淡いクリーム色〜白色/顔:ピンク〜赤褐色の裸出部(毛のない部分)/頭部:褐色〜金色/幼獣は青灰色の顔をしており、成長とともに親と同じ色に変化
オスの鼻成獣オスで長さ10cm超(口の下まで垂れ下がる)/メスと若い個体は小さく上向き/年齢を重ねると増大/体重に対する鼻の大きさは霊長類最大級
身体特徴大きな腹(複胃による発達)/長い尾(樹上バランス用)/指の間に部分的な水掻き(半水生適応)/長い犬歯(オス)
分布ボルネオ島全域(マレーシア:サバ州・サラワク州/インドネシア:カリマンタン各州/ブルネイ)/完全な固有種で他地域には自然分布しない
生息環境マングローブ林・河川林・湿地林・沼沢林/必ず水辺の近く/内陸の乾燥林には進出しない/人為的な森林撹乱を避ける傾向
食性葉食性中心(folivore)/若葉・未熟な果実・種子・花/熟した甘い果実は避ける傾向(腸内で発酵過剰になるため)/複胃で発酵させて消化
繁殖繁殖期:一年中/妊娠期間:約166〜200日/通常1頭出産/授乳期間:約7か月/性成熟:メス4年・オス4〜5年
寿命野生:推定13〜15年/飼育下:25年程度
保全状況IUCN:絶滅危惧IB類(EN・2000年〜)/個体数減少傾向・野生では推定7,000〜25,000頭/CITES附属書II
テングザル・メス個体(Labuk Bay・鼻は小さい)
Charles J. Sharp, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons(Labuk Bay・メス個体)

オスの巨鼻─何のためにあるのか

「メスを引きつける」性淘汰説

大きな鼻ほど繁殖成功が高い

テングザルのオスの巨大な鼻は、性淘汰(sexual selection)によって進化したと考えられています。近年の研究では、鼻が大きいオスほど体重も体格も大きく、群れの中でハーレム(一夫多妻の家族群)を率いる優位オスに多い傾向が確認されています。メスは大きな鼻を持つオスを繁殖相手として好むことが観察されており、「大きい鼻=良い遺伝子」の指標として機能する形質と考えられています。孔雀の羽と同じく、繁殖の場で目立つための進化的な装飾と位置づけられます。

共鳴装置としての役割

もうひとつ有力な説として、巨鼻が声の共鳴装置として機能することが挙げられます。オスは大きな鼻の内部空間を共鳴腔として活用し、低く響く鳴き声(「ホンク」と呼ばれる警戒音や求愛音)を発します。同じ体格でも鼻が大きいオスの方が低く豊かな声を出せるため、群れの警戒信号やメスへのアピールで有利になるとされます。実際に大きな鼻を持つオスの声は森の遠方まで届く低音特性を示すことが音響解析で確認されています。

鼻の成長と個体差

年齢とともに大きくなる

オスの鼻は幼獣期には小さく上向きで、メスと大差ありません。しかし性成熟(4〜5歳)を迎える頃から鼻が急速に発達し、成獣期には口の下まで垂れ下がる大きさに達します。中年〜高齢のオスでは鼻が更に肥大し、食事の際に口に入って邪魔になるため、手で押しのけて食べる姿が観察されるほどです。この加齢による鼻の増大は個体の生涯を通じて続く継続的な変化とされます。

メスの鼻は小さいまま

対照的にメスの鼻は生涯を通じて小さく上向きの形を保ちます。長さは3〜5cm程度で、幼獣期と大きな差はありません。この顕著な性的二型(オスとメスの形態差)は本種の代表的な特徴で、水辺で観察した際に性別を見分けるはっきりした指標にもなります。

テングザル・ボルネオの野生個体
David Dennis, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons(ボルネオの野生個体)

泳げる霊長類

指の間の水掻き

大型サルで屈指の泳ぎ手

大型のサルとしては珍しく、テングザルは水中を泳ぐ能力を持ちます。手足の指の間には部分的な水掻き(interdigital webbing)があり、これが遊泳時の推進力を高めています。同じ川岸を暮らす他の樹上性のサル(ヒヒ類・オナガザル類)が水を苦手とするのに対し、本種は10m以上を水中で潜って泳ぐ姿も観察されており、大型サル類の中で最も泳ぎが達者な種のひとつと評されています。

川を渡って移動する

ボルネオの河川林で暮らす本種にとって、川を渡る能力は日常的な生活手段です。日中の採食で川の対岸へ移動したり、夜間に眠る樹木を求めて川岸を移動したりする際に泳ぎを活用します。子連れのメスも同じように子供を背中に乗せて泳ぐ姿が観察されており、群れ全体が水辺の生活に高度に適応した種であることが分かります。

ジャンプで川を越える

泳ぐ他にも、木から木へのジャンプで川を越える行動もよく観察されます。オスは特に大型で6m以上のジャンプ距離を出せる個体もいます。ボルネオのマングローブ林ではワニ(イリエワニ)が水中の捕食者として脅威となるため、可能であれば水に入らずジャンプで移動する選択も戦略的に用いられているとされます。

テングザル・ジャンプで移動する姿
Charles J. Sharp, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons(Sabah・ジャンプで川を渡る)

複胃で葉を消化する

反芻類のような胃構造

4室に分かれた複胃

テングザルは葉を主食とする葉食性の霊長類で、消化のために特殊な複胃(multi-chambered stomach)を持ちます。ウシやシカのような反芻類と類似した4室構造の胃を持ち、微生物発酵によって葉のセルロースを分解します。この複胃が発達しているため、本種の腹部は常に大きく膨らんで見え、体型的な特徴のひとつともなっています。同じコロブス亜科のサル(ラングール類など)とも共通する形質です。

甘い果物は食べない

テングザルは熟した甘い果実を積極的には食べません。熟した果物の糖分は複胃の中で急速に発酵し、大量のガスと乳酸を発生させて内臓破裂につながる危険があるためです。動物園でオランウータンやチンパンジー向けの果物を誤ってテングザルに与えると重篤な健康被害を招くことが知られており、飼育下では未熟な果実・若葉・種子など糖分の低い餌に限定される特殊な種類です。

採食パターン

季節による餌の変化

本種の食性は季節や生息地の植生によって変化します。雨季には若葉が豊富で葉の割合が高く、乾季には未熟な種子や花の割合が増える傾向があります。マングローブ林ではソネラティア属(Sonneratia)などのマングローブ植物の葉や花が重要な餌となり、河川林ではフィカス属(イチジク類)の未熟果実がよく食べられます。総じて葉:果実(未熟):種子・花=約6:3:1の比率とされます。

テングザル・ブルネイ川の個体
Calistemon, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons(ブルネイ川・Sungai Damuan)

群れ社会

ハーレム型の家族群

1頭のオスと複数のメス

テングザルの基本的な群れ構成は、1頭の成獣オスと数頭のメス・子供からなる「ハーレム型の家族群(one-male group)」です。1つのハーレムには通常3〜10頭のメスと未成熟な子供が含まれ、オスは群れの防衛・警戒・繁殖を担います。ハーレムのオスは他のオスからの侵入や乗っ取りに常に警戒し、大きな鳴き声と威嚇姿勢で群れを守ります。

独身オスの群れ

ハーレムを持てない若いオスや、乗っ取り争いで敗れたオスは「バチェラー群(bachelor group)」と呼ばれる独身オスのみの群れを形成します。バチェラー群のオスたちは互いに緩やかな関係を保ちながら、ハーレム乗っ取りの機会をうかがったり、餌場を共有したりして生活します。この社会構造は同じコロブス亜科の他のサル類(ハヌマンラングールなど)とも共通する霊長類の典型的なパターンとされます。

夜のねぐらは川辺の樹木

複数の群れが共同で眠る

日中は個別のハーレム群で活動していても、夜になると複数のハーレム群とバチェラー群が同じ川岸の樹木に集まって眠る「集合ねぐら(communal sleeping site)」を形成します。1本の大きな樹木や隣接する数本の樹木に数十頭から100頭以上が集まる光景は、ボルネオの河川観光の見どころとなっています。共同ねぐらの機能はワニ・ウンピョウ・大型トカゲなど夜間の捕食者に対する防衛と考えられています。

テングザル・ブルネイ川の別カット
Calistemon, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons(ブルネイ川・別カット)

絶滅危惧IB類─消えゆくボルネオの森

個体数の減少

推定7,000〜25,000頭まで

テングザルの野生個体数は、20世紀後半以降に急激な減少傾向を示しています。1980年代の推定個体数は約26万頭とされていましたが、現在の推定値は7,000〜25,000頭とされ、40年間で個体数が大幅に減少したと見なされています。IUCNレッドリストでは2000年に絶滅危惧IB類(EN)に指定され、以降も個体数減少の傾向が続いています。

主な減少要因

個体数減少の主な要因として、以下が挙げられます。

  • パーム油プランテーション拡大による河川林・マングローブ林の伐採
  • 木材伐採による森林の断片化
  • 河川汚染・水質悪化による水辺環境の劣化
  • 密猟(一部の地域で食用・伝統医療目的)
  • 人為的な火災による森林消失

特にパーム油需要の世界的拡大に伴うプランテーション化は、本種の生息地であるマングローブ林・湿地林を直接圧迫する最大の脅威となっています。国際的な持続可能なパーム油の認証(RSPO)などの取り組みも進んでいますが、生息地の減少は依然として深刻な状況とされます。

保護区と観光

保護区での生息

テングザルの保全には各国が保護区を設けて対応しています。マレーシアのサバ州にあるラブック湾(Labuk Bay Proboscis Monkey Sanctuary)・キナバタンガン川流域や、インドネシアのタンジュンプティン国立公園・ブルネイのウルテンブロン国立公園などが主要な保護区で、生態観光の目的地としても知られています。観光収益を保全予算に還元する仕組みが徐々に整いつつあり、地域経済との両立が模索されています。

日本の動物園での飼育

日本国内の動物園では、よこはま動物園ズーラシアが本種の常設飼育で知られています。テングザルは複胃と特殊な食性のため飼育難易度が高く、世界的にも飼育例が限られる霊長類です。日本ではズーラシアが2000年代から飼育・繁殖に成功しており、国内で本種を観察できる貴重な機会を提供しています。

テングザル・ブルネイ川の別カット2
Calistemon, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons(ブルネイ川・別カット2)

近縁種と系統

単型属としての位置

テングザル属(Nasalis)はテングザル1種のみで構成される単型属で、コロブス亜科の中でも独自の系統的位置を占めます。かつては近縁とされたシシバナザル属(Rhinopithecus・中国・ベトナムの高山性サル)とは、遺伝子解析で異なるグループと判明しています。

学名和名/英名分布・特徴
Nasalis larvatusテングザル(本種)/Proboscis Monkeyボルネオ島固有・オスに巨鼻・葉食性
Simias concolorメンタウェイザル/Pig-tailed Langurスマトラ沖メンタウェイ諸島固有・かつてNasalis属
Rhinopithecus roxellanaキンシコウ/Golden Snub-nosed Monkey中国内陸部・高山性・鼻がへこむ
Presbytis rubicundaアカルトン/Maroon Leaf Monkeyボルネオ島・テングザルと生息地が重なる

「大鼻の霊長類」の並び

霊長類全体で見ると、鼻が特徴的に発達した種はいくつか存在します。テングザルの垂れ下がった鼻はその中でも突出しており、体格に対する鼻の比率では霊長類最大級とされます。似た方向性を持つのはメンタウェイザル(Simias concolor)で、こちらは鼻がやや上向きに突出する形をとります。中国のキンシコウ(Rhinopithecus roxellana)は逆に鼻がへこんだ「上向き鼻」の霊長類で、寒冷地適応の結果とされています。「鼻の形」は霊長類の進化的多様性を追う比較材料として研究対象になっています。

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参考

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